昔からの暮らしを守ろうとする人、新しい暮らしを求める人
事実、あのピジャンが今回の騒動を起こしたのは、スーリア人の一部が、イハーデンと通商を始めたのが原因だった。
スーリアの人々が、昔からの暮らしを守っていれば、きっと、誰も死ぬことはなかったのだろう。
かといって、人間なら誰しも持っている好奇心で、外の世界にあこがれを抱き、新しい暮らしを作ろうとした人々を、責める気にはならない。
昔からの暮らしを守ろうとする人。
新しい暮らしを求める人。
きっと、どちらが正しくて、どちらが間違っているということは、ないのだろう。どちらも、自分たちなりの幸福を求めて、生きようとしただけだ。
ただ、『新しい暮らしを求める人』の行動が、ピジャン――『調和を保つ者』の目に留まってしまったのが、今回の悲劇の始まりだった。
俺は、地面を這いずるピジャンの、狂気に満ちた瞳と、言動を思い出す。
『今は、まだちっぽけな存在だけどー、お姉ちゃん、そのうち、世界のバランスを大きく乱す要因になるよー』
とんだ買いかぶりである。
俺はただ、毎日のんびり楽しく、おもしろおかしく生きられればそれでいいのだ。世界のバランスとやらを乱す気なんて、さらさらない。
しかし、考えてみれば、魔王軍を辞めて人間になってから、好むと好まざるとにかかわらず、やたらとトラブルに巻き込まれている気がするな。
今後は、もう少し考えて行動した方がいいかもしれない。
また、『調和を保つ者』とやらに目をつけられたら、たまらんからな。
俺とレニエルは、明日の朝早くスーリアを発つことをウーフに伝え、自らのテントで一泊し、翌日、太陽が昇りはじめるのと同時に、集落を出た。
短い間に、何度も湿地帯を往復したおかげか、ぬかるんだ地面を歩くのにも随分と慣れ、スーリア独特の、似たような景色もある程度は見分けがつくようになり、俺たちはこれといったトラブルもなく、アルモットへの帰路を進んで行く。
二時間ほど歩いたところで、一度小休止を取ることにした。
比較的安全そうな、開けた草地に腰を下ろすと、一息ついて、水筒から水を飲んだ。
「ふぅ……生き返る。この辺り、水は多いけど、ほとんど沼地だからな。透き通った水は補給できないし、大事に飲んでいかないとな」
水筒は一つしかないので、俺は一人で飲みすぎないように注意し、レニエルに渡す。
「そうですね。湿地帯を抜けるまでには、あと半日以上は歩かなければいけませんから、たとえ一滴でも、貴重な水です」
レニエルも、二~三口飲んだだけで、イングリッドに水筒を手渡そうとした。
しかしイングリッドは、拒否するように手のひらを正面に出し、短く言う。
「私はいい」
「えっ、でも、イングリッドさん、ただでさえ昨日、たくさんお酒を飲んだんですから、水分はしっかり補給した方がいいですよ」
レニエルの言葉に、俺も同調する。
「そうそう。アルコールを大量に飲んだら、脱水症状になりやすいって、なんかの本で読んだことあるぞ。やせ我慢しないで、いっぱい水飲んでおけって」
それだけ言い切ると、俺は、イングリッドの様子がおかしいことを察知した。
俯いて、なにやら「うぇっ、うぇっ」と言ってる。
二日酔いで吐きそうなのか?
まあ、強い酒を、あれだけ飲んだらな。
しょうがない奴だ。
背中でも擦ってやるか。
そう思い、彼女の側に近づいて、やっとこさ俺は気がついた。
イングリッドが、嘔吐感から嗚咽しているのではなく、さめざめと泣いていることに。
「お、おい、なんだお前、泣いてんのか? 今の会話のどこに、泣く要素があるんだよ」




