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頬を膨らませてツンと怒った表現をしてから、チラリと隣に立つ補佐を見た。
でもその人は相変わらず笑いを含んだ表情で、ただ温かい口調で「俺は好きだぞ?」なんて言っている。
ちょ、ちょ待って?
好きって。今、好きって言いました?
私は真っ赤になるのを抑えられなくて、慌てて目を逸らして地面を見た。
何言い出すんだろ、この人。補佐じゃないときの素が、私をバクバクさせる。その上、それが嫌じゃないと思う自分もいて厄介だ。
もう本当に嫌なんだ、恋、とか。そういう脆くて柔いのに飲み込まれたくない。その後倍以上のしっぺ返しが来るのが分かっているから、絶対にそんなものに捕まりたくない。
流されそうになる気持ちをぐっと律して、そしてまた顔を上げようとしたその時――上から補佐の、笑いを含んだ声が降ってきた。
「とりあえず、ククッ……これからの予定を聞かせてくれるかな? モップちゃん」
最後に付けられた一言で私は思い切り勢いよく顔を上げた。きっとその顔は真っ赤だけど、そんなこと気にしていられない。信号が青になって先に歩き始めるのを追いかけながら、私は後ろから慌てて追いかけて声を上げた。
「し、知ってたんですか!? 黙ってたなんて酷いっ」
「俺は知らないとも思い出していないとも、一言も言ってないぞ?」
そう言いながらケタケタと笑っている。
――あーもうっ! ほんっとトキ兄の時の補佐って意地悪すぎる!
悔しい~~!!
この人全部、思い出してて、それで私のことを面白がって見てたんだ。答え合わせをしなくてもだんだんと分かってきた。補佐は私のことが誰かとか、どこで会ったのか、とか全部覚えているのだ。
勝手に私は、もしかして私が誰であるのかなんて忘れてるのかなって思い始めていた。何せ8年も前のことだし、私は当時中学生で今とは多分雰囲気も違うかっただろうって……まぁ、一人の女性として成長したと思いたい。
病院で会った時も補佐は『やっぱりな』と言っただけで、それ以上は言及してこなかったし、態度も部下に対してって感じがした。だから、私が今日有休を取った事情と、補佐の行く先が被ったことに対してか。はたまた後姿に「江藤萌優と合致した」と言う意味で、やっぱりとでも言ったのだと思っていた。
けれど違ったのだ。その証拠に私のことを‘モップちゃん’と補佐は呼んだ。
――私の人生史上、一番封印したいそのあだ名を。
このあだ名を付けた張本人。それは私の初恋と呼べる相手であり、今は私の上司様で、そして……今現在、私のことを楽しそうに見つめている目の前の永友刻也その人だ。
所以と言えるほどの大層な理由はない。あれは中学2年の夏季合宿の初日の、夕方のこと。
夏季合宿はそもそも学校の公式行事ではないため、各校の顧問、副顧問の先生が参加して運営進行して行われるものだったりする。けれど3校合同でやっているもので、全部で先生が6人しかいないという事態が起きる。しかし参加する学生は各校20名は超えていたので、それだけの人数を6人の先生で面倒を看ると言うのは大変骨の折れることだった。
……って、私は参加する側だから、大人になって想像してみてようやく先生の苦労が分かったって話だけど。
そこで頼りにされてるのが、卒業生のOB様方だ。
彼らが先生らの補助役として有志で参加することで、何とか夏季合宿は成り立っていた。
勿論参加するOB達も演劇に触れられるということで楽しんでいるので、決して先生たちの為だけに来ているのではない。そんなわけで、現役中学生に交じってOBの主に高校生が参加してくれるのだけれど、あの年だけはトキ兄ほか大学生の面々が数名参加してくれた。
OBに年齢制限はなく、年が上でしっかりしているほど先生だって有難い。けれど現役生にとっては、あまりにも遠く離れすぎた存在で、お互い打ち解けるのに時間を要していた。
それは中学生だった私たちだけではなく、大学生だったトキ兄達も同様だったようで、60名は超える人数の中学生の名前を覚えるのに必死になっていた。……っていうのは私の想像だけど。もし自分なら、と置き換えてみれば、そうだとしか思えない。
そして事件は、私が使用していた会館でモップ掛けをしていた時に起きた。
初めて自己紹介をした中学一年の時から、私のことを「もゆっぺ」と呼んで憚らない、真田君が大きな声で私を呼んだ。
「もゆっぺー!」と、それはごく自然に。
大きくない会館内にその声は響き渡り、誰もが私のことを『あの子はもゆっぺなんだ』と認識したに違いないと恥ずかしい想いをした。しかしそれを上回る恥ずかしい仕打ちに私は遭うことになる。
――「モップ」と聞き違えた人が居たのだ。
まさかそんな聞き違いをしている人が居るとは思わない私は、真田君の呼びかけに「はーい」と返事をしたのだけれど……横で勘違いしたまま私と真田君のやり取りを見ていたその人は、大爆笑を始めた。そう、それがトキ兄だ。
笑いながら私と真田君に近づいてきたトキ兄は、何がそんなにツボなのか笑いを必死でこらえながら「お前、モップってあだ名なの?」と私に尋ねてきた。笑いながら言っていて聞き取りにくいけれど、明らかにもゆっぺと言ったようには聞こえず首を傾げていたら、あろうことか私を差し置いて真田君が「そうっすよ!」なんて返事をしてしまった。




