*29 忘れられない
老人は、建付けの悪い扉を開けて私達を小屋へと招いた。
埃臭く古い小屋だった。ボロボロの板切れ、抜けそうな床、すり切れた布。あまり人が住むには衛生状態がよろしくないだろうと思われる。
老人はぎしりと鳴る椅子に腰かけた。
「適当な椅子に座るといい。孤独な老人しかいない場所ゆえ、客人用の椅子すらなくてな……」
テーブルには老人が腰かける一脚しか備えられておらず、私達は部屋のばらけた場所にあった小さな椅子をそれぞれ持ち寄って老人の向かいの席へ座った。
「茶も菓子もでないが、話し相手はしよう。ここは孤独すぎて、世捨て人のような身となれど寂しさは覚える」
孤独過ぎる、という言葉に私はハッとなった。
そういえばここには地上では感じられた見えざる者の気配をほとんど感じない。地下墓地だというのに……。
「ご老人、もしやここには……」
「……そうか、お前達にはわかるか。そう、ここには誰もいない。わし以外、誰も」
「なぜですか? 墓地でなくともそのあたりをさ迷う者くらいはいるはずですけど」
あまりにも静か。
耳が痛いくらいに。
「ここが恐ろしい場所だと、本能的にわかるのだろう。魂が彷徨うこともできぬ場所……万が一、間違いでもここを訪れてしまえば、儚い魂は光に喰われる。世界のために」
世界の……ために?
「……お前達は、女神の信徒ではないな?」
「え、ええ……違います」
聖女だけど、信徒と言われたくはない。
「ふむ、お嬢さんの方は信徒ではないようだが……その身に女神の光を宿しているな?」
「それは……私が、聖女だからでしょうか」
聖女、という言葉に老人から少し冷たい空気を感じた。機嫌を損ねただろうか? 貴重な情報を得られそうな状況だ、下手なことはしたくないが。
「聖女、だがしかしおかしなことだ。お嬢さんからは、女神の光を確かに感じるが……心地よい闇の気配も同時に感じる。光を嫌うこの身が、とても落ち着く」
闇。
私にはあまり合わないワードだ。属性はしっかり光属性だし、一応聖女やってたし、闇系魔法は扱いが苦手なのだ。
性格が闇系と言われたら、なんも言えんが。
「長い長い時を、ここで過ごしてきた。女神に捧げられた贄を弔う場所。女神は慈悲深く、地下深く、贄の墓場を用意した。わしがここの墓守になることを契約させた」
「契約……?」
この言葉は、司教様からも聞いた。あの人もなにかしかの契約を聖教会側と結んでいる。
「逆らわれると対処が難しい者を都合よく場に縛り付けるための契約だ。巧みに仕組まれ、そうせざるを得なくなる。恨んでも憎んでも、人ひとりにできることはたかが知れ、大勢の因果を操る傲慢を許してしまう」
老人の手が震えた。それは怒りからの震えだった。
「わしは光が嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。老いて視力を失ってから、ようやくわしは光から解放された。闇は心地よい。闇の底には恨めしい女神の光は追ってこない。わしからもう何も奪えはしない。だが、光から逃れ闇の中にいても、わしはずっと契約に縛られながら光に奪われたものを取り戻そうと躍起になる。躍起になって、必死になって……いつの間にか狂っていた」
「狂って……?」
老人はなにかにとりつかれているかのように会話をするが、それでも会話が通じないわけでもない。気が狂っているにしては、まだまともな人間にも思えた。
「狂っているさ。なにもかもが、人間としても生が狂い、精神も狂い、ひたすらひたすら光から贄となった魂を取り戻そうとしている。死んだ人間は蘇らない、理すらわしは覆したいと思っている。なにをしてでも。だからこそ狂った。人として終わりを迎えられなくなった」
ぞわりと背筋が冷えた。
急激に老人の纏う雰囲気が凍えはじめる。重苦しい空気。押しつぶされそうな圧力。老人は私達に敵意をもっているわけではない。だが、その存在だけで私達『人間』を圧倒する。
「この気配、まさか!?」
レオルドが立ち上がった。
そうだ、レオルドも知っている……このすさまじいまでの魔力を!
老人の正体を理解した私達は身構えた。老人の姿はみるみるうちに変化し、その体は骸骨のみとなった。人の姿をかろうじて保っていた薄い皮もなくなり、包帯のなごりがあちこちにあるだけの、骸骨だ。
「あなたは……魔人、だったんですね?」
「そうダ。気が遠くなるほど昔、この世界に生を受ケ、そして女神になにもかも奪われた哀れな老人の成れの果テ……。元の名はとっくに忘却したが、今『同胞』からは≪キング≫と呼ばれていル」
キング。
魔人の一派は、それぞれトランプになぞらえた偽名を使っている様子だった。この老人もその一人なのだろう。
「あなたも、この地でなにかをしようとしていたの?」
「……なにモ。わしは他の連中と少々事情が違っていル。狂気に堕ち、魔人と成ったガ……ノアの計画には興味がないのダ。そもそもわしは、女神を恨み、そして女神に捕らわれているモノ。契約の破綻もできず、贄も放ってはおけない」
骨をカチカチと鳴らしながら、異形の姿となった老人は言った。
事情が違う。そう言う老人は、確かに他の魔人達とは異質に見えた。異質と言えば黒騎士『エース』もそうだが。魔人として残虐性と異常性を強く感じられたのはジャックとクイーンの二人だけである。エースは邪神『ノア』と呼ばれる存在の任務を請け負っているようだったけど、キングはそれも違うらしい。
「……闇を纏う聖女ヨ、わしは汝に問おウ。大勢を救うために、一人の犠牲は必要カ?」
とんでもない質問を投げかけられたと思った。
是とも否とも言いたくない質問だ。綺麗ごとを述べるならば、犠牲はない方がいいに決まっている。諦めないで! きっとすべてを救う道はあるわ! そうキラキラした目で断言できたのなら、私はきっと今頃立派な聖女様だっただろう。
だが残念なことに、ここにいる中途半端な聖女様は一般的な俗物である。
「……前提として言えば、犠牲なしにすむ方法があるなら手は打つべきでしょう。でも、どうしても一人が犠牲になる必要があるのならば、私には二つの道がある。一つは、犠牲になる人間が私にとって大切な人の場合。多くの人間が犠牲になるとしても、私はその一人を選ぶでしょう。その後にどうなろうとも、後悔しない道を。もう一つは犠牲になる人間が赤の他人の場合。私はなにもしない、一人が犠牲になって救われるなら私はただ、目を閉じている。赤の他人のために、他大勢の人間の命を背負いたくなんてないもの」
どちらにせよ、辛い道だ。
「そうカ」
「……でも、私は犠牲を当たり前だと思いたくない。犠牲っていうのは本当に最終手段なんだ。それしかないから選ぶんだ。選んだら、犠牲を許した自分を吊るしあげ続ける覚悟を決めなきゃいけない」
「……そう、カ」
老人は骸骨の眼球のない暗い空間を伏せた。少し、寂しそうな、でも安心したような雰囲気が伝わる。
「とうの昔に、正常な人の心を失ったわしだガ、お嬢さんの言葉は骨に染みる」
老人は次に視線をレオルドに向けた。
「お前は知恵高きモノ、汝の知に問う……この大陸で起きた一番犠牲者の数の多い出来事はなんだ?」
「一番犠牲者の多い出来事……正式な歴史書に記されていたものの中でなら、千五十年ほど前に起きた大陸戦争だと思うが」
「うむ、そうだナ。大陸全土を巻き込んだ戦だっタ。多くの血が流れ、大陸の人口の八割が喪失したほどの大きな戦。では、その後今までこの規模のものはあっただろうカ?」
「ない。国家間の小競り合いや民族争い、内紛はちょこちょこ起こっているが大規模な戦争に発展した例はない」
「……それはなぜか、わかるカ?」
レオルドは口をつぐんだ。色々と頭の中で歴史を思い出して問いの答えを探しているのだろう。少し間が空いてから難しそうな顔で言った。
「大きな戦の流れが起き始めると、≪戦争をしている場合ではない≫出来事が起きるから、だ」
「それは、なんダ」
「…………魔王の……出現」
その答えに、私は教皇様の言葉を思い出していた。
『人々の恒久の平和、安寧、幸せを紡ぎ続けるためのシステム。大陸に強大な敵が現れれば、戦争をしていた国同士も手を取り合える。そして、女神の剣『聖剣』に選ばれし勇者と、女神のごとき輝きを持つ奇跡の聖女が仲間と共に悪を打倒する。平和が訪れる……いずれ人々が英雄達の光を忘れ、失い、瘴気が溢れて再び悪が再生するまで』
「世の裏側ナド、知らなくて良イ、平和が続くのならば、大切な人が大切な人と笑顔で生きられる世界ならバ。暴いてどうすル、隣人が幸せに笑っているのニ、壊すのが正解カ?
ワカッテイル!
ワカッテイル!
ワカッテイル!
そんなことは昔かラ! それでもわしは、女神が憎いのダ。世界を平和に保つこのシステムが憎いのダ。嗚呼、エルダ、ウィズ、クローディア、エルネスト、ガーヴィン、――――」
老人の口から多くの人物名が紡がれていく。
まるで呪文のように。
まるで呪いのように。
「忘れられない。己の名は忘れても、この世に生を受け、足掻き生き、光に喰われていった贄達を! なにひとつ、忘れられないのダ!」
ボタボタと涙の滝が溢れだす。失われた眼球の黒い淵から、枯れることなく。
老人の嘆きは、暗い墓場に響き渡った。




