「それは白いイス」
みのる君はその公園に置いてある小さな白いイスに、なんだか見覚えのあるような、そんなふしぎな感覚がしていました。みのる君は冒険が大好きで、今日も知らない場所へ行ってみようかと、家の近くにある少し大きめの道を、ひたすらにまっすぐ、自転車で走ってみていたのでした。
どこにでもありそうな住宅街の真ん中にある、その小さな公園に人の気配はなくて、道に面した出入り口のある一辺以外は、家に囲まれたなんとも、寂しそうな公園でした。
そしてみのる君は、そこの入り口で自転車に跨りながら、そこにある小さな、子供用だと思われるプラスチックの白いイスを、じっと見ていました。
(……絶対にアレは、どこかで見たことがある形だ。)
みのる君はもちろん、その公園に来たのは初めてのはずでしたし、近所の公園でそのイスと同じものを見たという記憶も、まるでありませんでした。
(でも、僕はアレを知っている。確実に見たことがあるんだ。)
みのる君はいつの間にか、自分でも気付かないうちに自転車からおりて、何かに招き寄せられるかのようにそのイスへと近付いて行っていました。スタンドも下ろさずに置き去りにされた自転車は、道に倒れてチェーンがはずれてしまいましたが、みのる君の耳に、もうその音は届きませんでした。
(……そう、何年も前だったんだ。僕はあのイスと、同じ形をしたモノを見ている。それだけは確かなんだ。)
(でもそれはなんだったんだろう? 誰よりもよく知っているモノのはずなんだけれど、見たことがあるのは一瞬の――)
イスの白さは自然で、白いペンキなんかで塗装されているようには見えませんでした。それにところどころは縦に線が入っていて、座るところはなんだか、デコボコしてすこし丸みを帯びたギザギザに、囲まれているように見えるのでした。
(これは、もしかしたら夢だろうか?)
みのる君はそれが、何の形なのかを、思い出していました。
でもそれは、多分ありえないことで――……
(これは、………………、)
(………………………………………………………………)
(……これは僕の、)
(これは僕の七歳の時ぬけた、……下の乳歯じゃないのか?!)
みのる君はふらふらとした足取りで、そのイスに近づいて行きました。
(こんなことって、あるのかしら? ずいぶんとそっくりだ。)
みのる君はその傍にひざまずいて、白いイスに、自分のぬけた乳歯にそっくりのその白いイスに、こわごわと手を伸ばして触りました。冷たくて硬い、でもどこか温かみのあるその感触は、確かにそれが自分の乳歯だと、彼に教えたのです。
(……きみは、ここで僕をずっと、待っていたの?)
みのる君は無意識に、潤んだ両目を閉じてその白い乳歯――少なくとも、彼はそう信じました――を抱きしめました。
(…………、でも、どうしてキミだけなんだろう? 他のみんなは――他の抜けた乳歯たちは――いったいどこなんだろう?)
まぶたを閉じて、その目からじわりと溢れた涙が、彼の頬を伝い、乾いた地面へと落ちようとしたちょうど、そのときでした。
(――歌が、きこえる……)
彼はハッとして、その聞えてきた音へと、耳を澄ませました。高く伸びやかに空気が震えて、まるでささやかな夜の闇から少女が、優しく笑って顔を覗かせている六月の、淑やかな草むらでした。
それは寂しくて、どうしようもなくなった迷子の子供が歌うように、大気の中へ悲しみと不安を、それでも「また帰ることができるかもしれない」という期待の杼によって、やんわりと織り混ぜているみたいでした。
みのる君は突然きこえ出したその歌に聞き入りながら、僕はいったい君へ、何が出来るんだろう? と呟きました。もしかしたら、もう手遅れかもしれないけれど……。
歌はいよいよ大きく聞こえ、みのる君はそれが、自分への思慕によって歌われているのだと、気付きました。「いいとも、僕はここにいる。」 彼は、白磁色の歌い手たちの主にふさわしく、器の広い様子で言いました。
「やあ来るがいい。僕は何処へも、行かないからね」
その言葉に、どれほど彼らが勇気づけられたことでしょう。嬉しかったことでしょう。
彼らは、みのる君の胸に飛び込みました。
――電離層の外側から。
彼らの抱擁はみのる君をぎゅっと咀嚼し、その愛情を伝え合いました。
みのる君の身体は衝撃波で吹き飛んだため直接乳歯たちに会うことはありませんでしたが、許された乳歯たちはとても、幸せでした。




