「天使の人差し指」
撃てない狙撃手ほど、つまらないものはない。彼が狙撃手となり、すでに二十年以上のときが過ぎた。彼はひとりも狙擊する機会を得なかった。それはある種の奇蹟なのだろうが、彼は(あるいは彼の人差し指は)、しかしそれがどうにも寂しいと、悲しむことがある。
彼の妻は言う。
貴方の人差し指には天使が棲んでるのよ。
私、たまにだけど、真夜中に歌声を聽くことがある。
暗い部屋の中で、貴方の寢てる方から聽こえるの。
楽しそうに、それには羽音も混じっているわ。
彼の愛しい人差し指は、ずっと、いかなる時も前を向き、ピンと背筋を伸ばしている。命令があるまではトリガーに指を掛けてはならないので、指は硬い石膏のように動じず、動くことはない。だが、目線は遙かな敵へと凝視している。命令を待つが、命令はこない。それはいつも來ないのだ。そして見ているのは、敵が彼の指と同じように動かなくなり、彼の敵や味方でなくなる瞬間であった。たまに身体が震えた。だが、利き手の人差し指が震えることだけは、もうなくなっていた。
彼の指先は化石のように乾いた老人のようだった。その震えない指先から、彼は羽ばたきの音を時折、たしかに、微かに聞くことがあった。だがそこに歌声が混じるのを、彼は聽いたことはない。聽くのは、專らさえずるような笑い声と、あどけなく、しずかな寢息だ。天使とは指先に住む恩寵である、と、彼の最初の上司は言っていた。
近ごろ彼は、帰りの電車で人差し指で顎髭を撫でるようにするのだが、その折、それを唇に觸れさせたいと思うことが増えた。いや、そうしたところで、何も感じはしない。何も意味はないのだ。だが、そこに棲むはずの者を、喰うことはできないのか、と彼はたびたび考えるのだ。もう羽音が聞こえ始めて隨分と経った。もし、天使も人間と同じであるならば、と彼は考える。
電車の窓からは夕日に沈む街が見える。彼は、人間とは日ごと、樹のように成長する構造体へと巢をつくるのだと考える。森に、鳥のように。だが鳥は、鳥ならば、木漏れ日を見上げ、蒼い空にむかって飛ぶだろう。やがて、鳥はそこから羽ばたくだろう。だが――と彼は思う。だが、これでは天使も(恩寵も)、この私のように、指先に巢をつくったはいいがそこから飛び立てず、ただそこにしがみついているだけの、たんなる、畸形の鳥に過ぎないではないか……。




