「エデン2216」
そして、《葬送狼星》は私に向かって微笑みかけた。
「――僕、恋心って、わからないんだ」
空には鱗型の雲が一面にひろがって、薄ら陽が洩れていた。
そして、私たちの眼の前のグラウンドでは、野球の試合をしている生徒達がいる。
放課後の風はもう冷たかった。
見物している生徒は私たちの他にも何人かいて、ほとんどが暇な女子だった。他校との練習試合を何気なく、グラウンドの隅から目で追っている。
恋心って、わからないんだ。
かつて、《火星》として生まれた私に任された《葬送狼星》は、私の告白にそう答えた。監視しているのではなく、管理しているのでもなく、人としての生活を体験させるのが私の役目なのだ。べつに、そこに恋愛を持ち込んではダメだとは言われていないし、私自身、この彼以外の彼となら恋仲だったこともたしかにあったのだ。
そうして、はぐらかされたことにどうにも落ち込んでいると、グラウンドに飛んだ白球が跳ねて、その勢いのままこちらに突っ込んできた。彼は避けなかった。微動だにせず、目を細めもしない。その反応の無さに、グラウンドの生徒の誰も、彼には注意を払わずに、白球の行方だけを追った。ゆっくりと頬を伝った一筋の血が、グラウンドの冷たい砂に吸い込まれて消えていった。
「また、そんな風に……あなたは、ここでは《私たち》なんだから」
私の《葬送狼星》には夢がない。
グラウンドを視る虚ろな目で、私のことも、宇宙に浮かぶ自分のことも視ているのだと思うと、学生服を着た彼の華奢な肉体が、今に消えてしまっても不思議ではないような気がした。
乾いた土の上を、ユニフォーム姿の生徒達がボールを追って駆けていく。
ほとんど聞き取れない素早い指示や、応答や、掛け声が間断なく響いていく。
人類の観測可能な宇宙における、その惑星の恒常性を人の意識として変奏し、人の集団的無意識に接続する形で個別の同一化表層を模倣している私たちの文明は、自然と我々との合一において、その中枢に人の意識を利用し、文字通り宇宙との調和の中で繁栄していた。
《葬送狼星》は私を置いて、グラウンドに背を向け歩き出してしまう。
後を追う私は、彼を振り向かせることができるのか。
変奏紀元2216年に到達した我らがエデンの中で、彼の心にだけ、虚無が育っていた。
人類の観測可能な宇宙最後の地獄、かの惑星は未だ心を閉ざしたままだ。
「――君だって、心なんかホントはないんだよ」
振り向かずに彼が言った。
君の目には僕よりも感情がないよ、と付け加えて。
「わ、私はっ 私は……ずっと前に、人間になったよ」
それは僕も同じだよ、と彼は静かに言った。
ここだって、君は果たしていつなのか、わからないくせに。
そう言って校門へ向かう悲し気な彼の背中を、私はずっと追い続ける。
冬服のセーラーに身を包み、風に身を揺らされながら。
《データ》が送受信されるものでなく、漂流するものになって数紀元たった現在の私たちには、仮想と現在するものとの違いはもう区別できない。
ここが、そもそも現実しているのかすら。
それでも、私は、彼が、好きなのだ、と実感する。惹かれるその気持ちが、もし文明の調和のため必要な素材でしかないとしても、もう、集合的無意識――とかつて呼ばれたものを残して生物種としての人類が滅びているのだとしても、それでも、ここには未だ宇宙自体に戸惑いを生む、彼への気持ちが渦巻いている。
(――「エデン2216」は、現在構想中の〈ハイブリッド・メビウス〉シリーズに属する作品群のひとつとして執筆されています。)




