「暗闇に苺」
そうつと襖を開けると、そこには黑い位牌が在る。
佛壇に納まってゐるその黑い牌はこの廢墟の中でも唯一の人の住んでゐたと思しき最後の氣配なのに、降り積もつた埃のせいで私の顏も殆ど映してはくれなくなってしまつた。さほど氣にすべくもないその小さな部屋の牀の閒には、繪だけが剥がされた裝具のみの掛け軸が掛けられてゐるのであるが、その前に置かれた花甁が割れてゐるせいでさほどそのことを氣にする者もゐないだろうと思われるのだ。壁の隙閒はからゆつくりと陽光が差し込んで來てゐる。薄暗い部屋の牀には背の高い苔が生え、もとの疊に存在してゐた規則正しい纖維の羅列を見出すことはもう難しいように思へた。部屋を支へる柱は濕つてゐるやうに見えて實はまだ硬ひために鼠はその牙を削りにやつてきては喜んで巢へと歸つて行くのだが、にも拘らずこの部屋は傾いていた。無數の蜘蛛が屋根裏に巢を張つたせいだらう。重みに天井板が軋んでゐる。
襖を閉じ、膝をついてゐる廊下を見渡す。ひび割れた壁が見える。一方の突き當りは角になつており、奧は階段であらうとみえた。振り返つてもう一方の先には、私が入つてきた玄關が明るくある。私は玄關に引き返すか否かを僅かに考へた。水の滴る音がする。家の奧から響いてゐる。さつきまで感じなかつた音だつたが、今では時計の秒針が響かせるやうに引切り無しに聞こへてゐた。私は廊下の角の向うから、びゅぅぅと吹いてきたその風を、頬に受けて舌を出した。乾くよりも早く、苦い味が廣がつた。
私は玄關へ向かつた。位牌を持ち出さうかとも考えた。だが風はなお强くなるばかりだつた。開けたままになっていた木製の扉まで、五步と離れていないところまで早足に進んだ。そこで私は足を滑らしてしまつた。腐りかけた芋蟲の死骸に、足を取られてしまつたのだ。この邊りの土地は地盤も固く、蟻もほとんどいないためだ。かといつて天井裏の蜘蛛たちはといへば、巢に飛び込んでくるやうな生きのよい獲物にしか興味を覺えぬらしいのであつた。
濕つた牀へどんと尻もちをついたわたしの尻をそつと撫でるものがある。
振り向くとそこには、苺の花が一輪。




