「錠剤の庭」
「お嬢様。お薬をちゃんとお飲みくださいな……」
またメジャーズばあやのお小言が始まった、とパティは思った。
パティは寝たきりの少女で、夕食後の今しどけなく着くずした浴衣で、蒲団に半身を起こしていた。
彼女はメジャーズ女史から目を逸らし、開いた障子から庭を見ていた。
見事な日本庭園が、そこにはあった。
「わかっているわ。いつも飲んでるでしょ?」
彼女は不機嫌に言う。
メジャーズ女史は首を振る。
「嘘おっしゃい。また、たくさん庭にお捨てになって」
「だって40錠なんて、どうしたって多すぎるじゃないの。明らかに副作用が怖いもの」
「でも、これはお嬢様の健康のためなんです……」
女史もその量には疑問だった。しかしそれでも、彼女はその錠剤をパティに勧めるしかない。薬の過剰は彼女の病気が、それほど重いということだと思ったから。
○
「パティはまた、薬を飲まんか……」
「ええ旦那様」
旦那様、と呼ばれた和服姿の男性は悩ましげに、眉間に手を添えた。
畳の敷かれた書斎である。イグサの匂いと壁を埋め尽くした本棚の書物の匂いが、呼吸以外にも皮膚から染み込んで、脳髄にじわじわと届いていくようだった。
「でも少し、量が多すぎやしませんか?」
メジャーズ女史は、不安そうに、どこか不満そうに男性に問いかける。
「いやしかし、そうでなければ効かんのだよ、あの薬はな……」
「はぁ……」
男性は少しの間まぶたを閉じていたが、何かを決心したように口を開いた。
「もう隠し立てもできないか。君には、知っておいてもらおう。あの薬のことを」
「あの薬には、何か秘密があるのですね?」
「その通りだ。あれは、超能力を発現させるのだ」
「超能力?」
怪訝な声で、メジャーズ女史が問う。
「あの薬の場合、手を触れず物を自由に動かすことのできる、”PK”という能力が現れることを助ける」
男性は、机の引き出しから、自分のノートを取り出した。
彼は"変態心理学"の学者である。
変態心理学の中でも、特に"心霊心理現象学"の博士だった。
あの薬も、彼の研究の成果なのだ。
「どういうことです?」
「つまり、もうあの子の足は治るまい。ならばその能力で、せめて自分の身体を、動かせるように……とな」
○
パティは眠っていた。
夢の中で彼女は泳いでいた。
四方まで見渡す限りの海。
空は燃えるように赤いが、太陽はどこにも見えない。
雲は無数に、ミジンコのようなゾウリムシのような姿で、るぅぅぅ、るぅぅぅと空をたゆたう。
吹けよ風、という声。
なぜならばここには、肌に触れる温もりしかないではないか?
私の浮く下にはおそらく、巨大な魚が口を開け、ぬるぬると雲を見上げて。
凛とした足先の痺れに、私はそれが海面を嫌う甲冑魚であると知るのだろう。
魚の体表には苔じみた海藻が群生し、さながら沈み切れずにいるアトランティスのようで。
浮力が消えていく。
海の表面張力は燃え尽きたのやもしれない。
水平線の赤さが、鮮度を増すにつれ。
ずるぅり、ずるり、と、沈み込む……。
海の底は気持ちがいいよ。
アトランティスといっしょに沈もう?
とそれが、聞えたのは夢なのか、わからないままパティは目を開けながら、そこが夢の続きのような気がしてふらふらと、まばたきを数回した。綺麗な日本庭園が見える。白い砂利の敷き詰められた、石灯籠の輝きの白く、小ぶりな木々の枝青々として。
しかしその白い砂利かと見えるものは、それは近づいてみると実は、砂利以上に無数の錠剤であることを、彼女は識っている。
錠剤の庭だ。
と彼女はいつも思う。
私に捨てられた錠剤で出来た庭の白さだ、といつも思う。
そこで「おや?」と彼女は気付いた。
いつもより月光が近い。
月が大きい。
そこで、庭が鳴いた。
それは、アトランティスの声だった。
彼女は日本庭園の中に、浮いている……。
「海の底は、気持ちがいいね」
と彼女は笑った。
部屋は見当たらない。
塀のない一辺が見える。
しかし地平線も水平線も、そこからは見えなかった。
月に向かって、夜を航海していた。
錠剤の庭が、私だけを連れて。
○
その日、
ついに捨てられた大量の錠剤によって、
彼女の庭が、超能力に目覚めたのである。




