「せいのそうせい」
ここで数十年暮らしているという翁には、前歯が無かった。
その老人は私へ、屈託のない笑みで言った。
「あんた、”正の走性”って知ってるかい?」
「せいのそうせい? ”走光性”、のことですか?」
「お? ……おぉ」
老人は曖昧に頷いた。
「ユーグレナとかテトラヒメナなんかのなぁ、そういう微生物が持っとる、光の強い方へと向かっていく性質のことでな」
「……なるほど」
私はコップの水を口に運んだ。
たぶん苔の青臭さだろうか、鼻の奥にツンとした匂いが残った。
「正の走性、ですか」
「おぉよ。そいつはいつの時代にもあった。思えば人類がアフリカを出た、それがそもそもの始まりだったのかもしらん」
臭いのしない海のほとりにある、粗末な小屋に、私達はいる。
そろそろ星も見え始め、地球の50倍ほどもある巨大な月の姿が、よりはっきりと光を含みはじめていた。
「私と来ますか?」
「……ぉお。ここより進めるなら、な」
私の舟なら、まだ数十光年は進めるだろう。
技術の進歩が、人類の限界を塗り替える。
遠くへ、もっと遠くへ! その合言葉は、まだ枯れない。
我が銀河帝国に、国境はないのだから。
――正の走性。
人類にとっての光は、いまだ自らの限界と、
尽きることのない、渺渺たる浪漫なのであろう。




