エピローグ2
イザベラは朝も早くから起きてハニートーストを作った。
柄にもなく緊張している自分がいた。料理をしていれば少しは気が紛れたが、それでも手が小刻みに震えている。
もしも、また試験に落ちたらどうしようか。イザベラは最悪の事態を考えた。もしかしたら栗栖に捨てられるかもしれない。そんなことはないと分かりつつ、イザベラの不安の種は大きく育っていく。
しかし腹をくくるしかない。
家を出る前に、お守りがわりを一つだけ。栗栖の部屋に忍び込んで、そっと栗栖の手を握った。気が付かれないかとドキドキしたが、栗栖はぐっすりと眠っていた。起こさなければきっと昼前まで寝ているだろう、ダメな人、とイザベラは一人笑う。
「行ってまいります」
イザベラが向かった先は、栗栖の通う高校だった。
長い坂道を登っていく。春にはここを栗栖が全力で走ったのだ。あのとき応援した自分もまた全力だった。そして栗栖はその期待に答えてくれたのだ。
そのある意味では思い出の坂道を登っていく。
そして坂を登りきり、校舎が見えてくる。
まったく、試験会場ははS級メイド昇級試験を受ける者でそれぞれ違うとはいえ、これは酔狂に過ぎる。普通だったらどこかの古城や、きちんとした公共の施設の一室をつかうのに。どうして自分だけ、よりにもよって高校なのだろうか。
とはいえそこを指定されたのであれば参上するしかないのだ。
イザベラは校舎に入り、来客用のスリッパに履き替える。もう試験は始まっているのだろうか、日本には壁に耳あり障子に目ありという言葉があるけれど、いまがまさしくその状況なのかもしれない。
イザベラは言われた通り、二年の教室に行く。イザベラの記憶が正しければこの教室で栗栖が毎日授業を受けているはずだ。
教室のドアの前に二人のメイドが立っている。その二人はやってきたイザベラを一瞥すると、ペコリとお辞儀をした。どちらも奇麗な人だった。
イザベラはなにも喋らず、教室のドアをノックする。すると中から「どうぞ」とよく知った声で返事があった。祖父であるフロンティ・リシャールの声だった。
「失礼します」
試験管は三人いた。どれも世界屈指のS級――グランドの称号を持つ執事とメイドだった。
「どうぞ、おかけください」と、三人の中で真ん中に座った祖父が言う。
その顔には孫娘に対するものではなく、一人の試験官としての冷静さが貼りつている。
「私たちはいまから貴女に一つずつ質問をします」
向かって右側に座った、メイドというよりも魔女のような恰好をした女性が聞いてくる。オーストリアのS級メイド、マジョリティ・セーラだ。
「それに答えるのがそこもとの試験である」
そして向かって左、男か女かもわからない中性的な顔をした老人。齢はゆうに一○○を超えると言われる中国の宦官、李王逸だ。驚くなかれ、彼は清の時代からずっと心に決めた王に使えた筋金入りの忠義者である。
「よろしいですね」と、祖父。
「はい、お願いします」
三人は三人がそれぞれの国の言葉で喋った。この時点でイザベラは三ヶ国語を操らなければいけないのだ。
最初の質問はマジョリティからだった。
「では、今この部屋を入る時、貴女から見て右側にいた女性。そのメイド服についたカフスボタンの柄はなんだったかい?」
「はい、お答えします。それはユニコーンでした。しかし女性、と言われましたがあれは男性だったように思えます」
一見というよりも、誰が見ても女性にしか見えなかった。しかしイザベラにはそのメイドが男性であることが看破できた。それは彼女の観察眼の為せるわざだ。
「正解よ。そして彼女を男性と見破るとは中々ね」
「次の質問は奴才からじゃ。この世で一等大切なものはなにか」
「それは愛するご主人様です」
その愛の意味を、どう受け取られようと構わなかった。
「それは増えるものか、あるいは変わるものか?」
「いいえ、私にとってご主人様はただ一人です」
「うむ。よい答えだ。奴才のその人はもういない……それがしはその人との時間を大切にするのじゃぞ」
そして最後の質問は、血を継いだ祖父からだった。
「では、最後に私から」と、祖父は日本語で言った。「よろしいですね」
「はい、お願いします」
「では、ここに電車が来ているとします。貴女は橋の上からそれを見ています。下には線路が走っており、すぐそこには分岐器――ポイントが存在します。電車はそのまま行く路線には三人の人が。そしてポイントを切り替えた先には一人の人が。
その人々は電車が来ていることにまったく気がついていません。そして、そのポイントの切り替えスイッチは貴女の手元に。さて、貴女ならばこのボタンを押しますか? また、もし切り替えたとしたら、切り替えた先にいるのは貴女のご主人様です」
この質問は3年前にもされたものだった。
そのまま3人を見殺しにすれば主人は助かる。しかし1人を殺すと決めれば3人は助かるが、それは自らの主人であり、そしてボタンを押したイザベラは自らの意思で人を殺したことになる。
3年前のイザベラは間髪入れずにボタンは押さないと答えた。なにはともえあれご主人様を助けることが先決だ、と。そのために3人死のうが5人死のうが100人死のうが関係ない。
だがいまのイザベラには即答などできなかった。
考える。
が、しかし答えなどでない。
そしてイザベラは、ふと笑った。
「分かりません」
「分からない?」と、祖父は目を丸くする。
それは完璧なメイドとしてあってはいけない答えだ。しかしイザベラはその返答に迷いなどなかった。
「ではどうしますか? ただ流れにまかせ3人を殺しますか?」
「そうですね、自分だけでは決めかねます。ですから――思いっきりご主人様に向かって叫んで、聞いてみます。どっちがいいですか? って」
それは主人とメイドにとって何よりも大切な、信頼関係だった。
いままでのイザベラにはそれがなかった。言ってしまえば自分を信じて、自分の信じた理想を相手に押し付けた。その押しけによってたとえ他人がどんなにプレッシャーを受け、落ち潰されようと、出来ないほうが悪い。そう思っていた。
だがイザベラは栗栖と過ごして変わった。尊敬できる主人、素晴らしい人、愛する男。その人を信頼するという大切さ。それこそがイザベラが見つけた「なにか」だったのだ。
この答えに祖父は満足したのか、ゆっくりと頷いた。
「わかりました、これにて試験は終了です。どうぞ、そちらのドアからお帰りください」
「はい、ありがとうございました」
立ち去ろうとしたイザベラを、三人の試験管が止めた。
「そうでした、一つ言い忘れたことが」
「そうですね」
「あります」
三者三様の国の言葉。それをひっくるめて、イザベラは母国語で返事をする。
「ウィ」
「貴女を、グランド・オブ・メイドとして仲間に迎え入れますよ」
その言葉に、イザベラは思わず涙した。やっと、やっとここまできたのだ――。
挨拶もそこそこにイザベラは走り出す。どこかに公衆電話の一つでもないだろうか今すぐにこの誉れを愛するあの人に伝えたかった。
――――――
電話にでた栗栖は、イザベラの美しい声に思わずにやけた。
「気持ちわるいでーす!」
うるさい、と足でソフィアを蹴る。
『あの、ご主人様』
「ああ」
『受かりました』
「おめでとう!」
『はい!』
電話口でイザベラは泣いているようだった。そして栗栖も、なぜだか分からない。こんなことは初めてだった。嬉しさのあまり泣いてします。
「受かったってさ!」と、そこにいる二人に言う。
ソフィアと父親は小躍りして喜んだ。
「イザベラ、今夜は美味しいもの食べような!」
『はい!』
「なあ、イザベラ」
口は勝手に動いている。
『なんでしょうか』
イザベラはどこか恥ずかしがるような調子だ。
「俺、昔キミに会ったこと、あるよな?」
その言葉に、イザベラが息を呑んだのが分かった。そして嬉しそうに、
『やっと思い出したのですか、ご主人様はダメですねえ』
と。
ははは、と栗栖は笑う。
「だからこそ、完璧なメイドさんがいてくれなくちゃ困るんだ」
それは栗栖からの、不器用な彼からの遠回しな告白だった。
だがイザベラも、完璧に見えてどこか鈍感なのだ。
『はいご主人様。私にも貴方が必要です』
そんなことを言って、しかし二人の気持ちはまだ少しだけすれ違う。けれど気持ちの向きは同じなのだ。いつかはきっと、完璧に二人も気がつくだろう。
二人が愛し合っているということに。




