第七話 イザベラの人生
これまでの人生で、良い事なんてほとんどなかった。
イザベラは独りになってからずっと、そんなことを考えていた。
両親が死に、祖父に引き取られてメイドとして育てられ、それから先の人生をずっと誰かにつくすために生きてきた。
だというのに、誰もが最初だけイザベラを歓迎し、そして次第に疎ましく思うようになるのか、イザベラのことを切り捨ててきた。
別にそれについて何かを思ったことはない。
主人に捨てられるというのはメイドであれば意外とよくあることなのだ。誰もが最初に努めたお屋敷で一生を過ごすわけではない。むしろそうなれた人間は幸福だろう。だからイザベラも別になんとも思わなかったし、むしろ心の中では自分のような完璧なメイドを捨てて、この人たちは後悔しないのかしら? とすら思っていた。
だがいま、イザベラは初めて捨てられることを恐れた。
栗栖だ、あの人に捨てられるのが怖かった。けれどどうすればいいのかまったく分からないのもまた事実だった。いったいどうすれば栗栖は永劫に自分を手元に置いてくれるのだろうか。考えても答えは出ず、結局はいつもどおりの自分のやり方で栗栖と接するしかなかった。
けれどそれがダメなのだということも分かっている。
いままでA級メイドとして色々な人に仕えて、イザベラは完璧である自分に対して主人もそうであるべきだとその成長をうながしてきた。最初こそ主人たちはみなイザベラの期待に答えようとして努力をした。けれど早い人はすぐに、もった人でも二度目にはもう音を上げた。
――貴女といると疲れるわ。
――そんなに期待しないでくれ。
――キミと僕とは違うんだ、キミにできることを僕ができると思わないでくれたまえ。
そんなふうに言われる。
ようするにイザベラの求める位置が高すぎたのだ。不思議の国のアリスに全力で走らなければ戻される床、というものがあった。イザベラはいつも相手に全力を求めた。
イザベラ自身はたしかにそれをやれと言われてこなすことができた。そもそもそういうふうに今までメイドとして生きてきたのだ。だから誰にでもできると思った。けれどそうではなかったのだ、全力で走り続けられる人間は、イザベラが思っているよりもこの世界には少なかった。
けれど栗栖はどうだろうか、一度ならず二度までもイザベラの期待に答えてくれた。きっとあの人こそ、私の運命のご主人様なのだ。そう確信した瞬間でもあった。
もし――イザベラの人生で一つ、間違いなく良かった出来事をあげるとしたらそれは栗栖に会えたことだろう。
けれど栗栖はもう忘れているのだ、二人が初めて出会ったときのことを。
それはそれで良い。寂しいけれど、しょうがない。だってあの時はイザベラも栗栖もまだこんな小さな子どもだったのだ。だから忘れてしまっていても不思議ではない。
イザベラは独りで公園のベンチに座っていた。こうしているとあの日のことを思い出す。パリのエッフェル塔で、栗栖と、そして憧れの人と出会ったあの日のことを……。
その前の記憶はできれば思い出したくはない。けれどこうして暇をしていると、いきなり嫌な記憶がフラッシュバックすることがある。それはつまり彼女にとってのトラウマなのだろう。だが彼女はそれで気を病むようなことはしなかった、この思い出ともこれからの人生、付き合っていかなければいけないのだ。
イザベラの思い出はフランスの田舎町――そのはずれにある馬小屋のようなあばら家から始まる。
幼い日のイザベラは豊かな自然の中で暮らす純朴な少女だった。父は町の帽子職人、母はパン屋の売り子。けっして裕福ではないが幸せな暮らしをしていたと思う。
だが、この両親の人生はそれまで波乱に満ちたものだった。イザベラがそのことを知ったのは、ずいぶんと後になってからだった。
イザベラの父と母は、お互いに執事とメイドだった。とはいえ二人の立場は違っていた。父はその界隈では名門とされるリシャール家の執事であり、母はただそこらへんの下女。
そもそも執事というのはそもそも貴族の長男しかなることを許されなかった高貴な職業である。それが時代と共に多様化していった経緯がある。その多様化のはてに、貴族と同じようにサーヴァントとしての系譜ができたのも、また当然のことだったのかもしれない。
リシャール家は当代最高のバトラーであるフロンティ・リシャールを当主とする名門中の名門だった。その息子であるイザベラの父も、将来を有望視されたA級バトラーだったのだ。
だが恋に身分など関係ない。
父と母はお互いがフランス人。いちど恋に落ちればそれは燃えるような激しさだ。周りがどれだけ止めてもそれは発破をかけているだけだった。
とくに二人の関係に反対したのは、リシャール家の当主であったフロンティ・リシャールだった。
彼は自身の家柄が執事として最上のものであると信じて疑わなかった。そのため、一族の血にどこの馬の骨とも分からぬ下女を入れることを許さなかったのだ。イザベラの父にはできれば末席でもいいので、どこぞの貴族と結婚してほしいとだいそれた事まで思っていたくらいなのだから。
だが、イザベラの父はどうしてもそのメイドと結婚がしたかった。
だがフロンティもイザベラの母のことを絶対に認めなかった。
何度も何度も話し合ったが、結局は平行線上で言い争っているだけだった。お互いに譲歩など考えない。その話し合いはやがて憎しみを帯びて、最後には父子で怒鳴り合うだけのものとなっていた。
結局、結婚は絶対に許してもらえないと悟ったイザベラの父は、母と二人で駆け落ちする道を選んだ。それは全てを捨てた逃避行だった。
駆け落ちなどしようものならフロンティはすぐさまW・S・Oに掛け合って、二人が今後一切そのような職業につけなくなるように根回しするだろう。事実、彼はそうしたのだ。
家柄も、職も、これまでの経験や思い出も、全て全て捨てた。だが二人は一緒になれるのならばそれで良かった。金輪際、バトラーやメイドという職につけないのは分かりきっていても、だ。
それに二人は一番大切なものだけは持っていた。それは最愛の娘だった。
そう、二人はこの時すでに三人だったのだ。イザベラの母親は妊娠していた。
三人はそれから、フランスの片田舎でつつましく暮らしたのだった。
しかしその幸せは長くは続かなかった。イザベラが5歳の時だったと思う、父親が流行り病で死んだ。流行り病といってもお金があってきちんとした治療を受ければまず治るというたぐいのものだった。だが、イザベラの家にはそのときお金がなかった。一家の生活はいつも困窮を極めており、ギリギリのものだったのだ。
そして父が死ぬと、生活はさらに苦しくなった。
母はもともと、イザベラに似て美しい人だった。その美しさで父親を誘惑しただとか、えらくひどいことを言われたのだ。しかし母は金のためにその美しさを売り物にして、そしてやがて擦れていくに連れて、その美しさを捨てざるえなかった。
田舎町ではうわさなど簡単に広まる。とっている客が村の中のものであれ外のものであれ、彼女が淫売だといことは誰もが知ることになった。
母親は昼の仕事をクビにされた。イザベラは通っていた教会学校へ行けなくなった。
そして、母親とイザベラに対する迫害が始まった。
色々なことをされた。思い出したくもないようなことばかりだった。村の人たちはイザベラとその母親を村八分にしたのだ。食べ物さえ売ってもらえない。町を歩いているだけで石を投げられる。父親の墓すらも倒された。
限界はすぐに来た。
もうどうしようもなかったのだ。
イザベラの母親は背に腹はかえらないと覚悟を決めた。
どうかこの子だけでも、とフロンティ・リシャールに助けを求めたのだ。イザベラの母親は天涯孤独であり、だからこそ下女だったのだが、頼れる親戚もいなかった。唯一頼れたのは死んだ旦那の父親だけだった。
母は平身低頭でフロンティのところへ行った。イザベラの母親の美しさだけはフロンティも認めるところだったが、そのときにはもう見る影もなくなっていた。ただの物乞いのような惨めな女に成り下がっていた。
「お願いします、どうか……どうかこの子だけは」
みすぼらしい女はそう言った。イザベラはその時、横でそれを聞いていた。
「うるさい、このあばずれが!」
祖父はひどくイザベラの母親を罵った。子供に聞かせるべき言葉ではなかった、といまにしてイザベラは思う。だが祖父も自慢の息子を盗られ、挙句の果てには死なせた母親に思うところはたくさんあったのだろう。少なくとも祖父の視点で見ればそう映るはずだ。
「お願いします、どうか……どうか」
母親は懇願し続けた。
フロンティはおおよそフランス語にある罵詈雑言を全て言い終えると、根負けしたようにその女の子だけは置いていけ、と母親に宣言した。
「ありがとうございます――ありがとう。イザベラ、私の可愛いイザベラ」
それは、イザベラが母親と最後に交わした会話だった。
「はい、お母様」
「貴女はここできちんと言うことを聞いて、いい子にするのよ。それでね、うんと幸せになるのよ」
幼い日から聡明だったイザベラは、母ともう会えないのだと悟っていた。そして父と母の関係もだいたい知っていた。だけど彼女は聡明であるからこそ、分からないふりをした。
「お母様、どういうこと?」
「お母様は今から遠いところへ行くから、貴女はお祖父様のところで暮らすのよ」
「いつ帰ってくるの?」
もう帰ってこない、そんなことは知っていた。
「さあ、でもいつかは、ね」
イザベラの母親は、イザベラの手に古びた時計を一つ、手渡した。それはスイス製の時計で、母親が昔、父からプレゼントされたものだった。
――これを私だと思って、末永く元気でね。
そして母親は追い出されるように屋敷を出ていった。残されたのはイザベラと、いかめしい顔をした男だけだった。
イザベラは泣きそうだった。
自分が捨てられたのではなく、生きるために託されたということは分かっていた。けれど彼女はまだ幼かった。できれば母親と一緒にいたかった。
けれどイザベラは、本当に早熟だった。早熟すぎたと言っても過言ではない。
「キミは、人のために生きられるか?」
フロンティはまずそう質問した。
イザベラはこの質問に、微笑みを浮かべて答えてみせた。
「はい、お祖父様」
だが彼女はこのとき、人のために生きれらるからこう答えたのではない。自分が生き延びるために嘘を言ったのだ。
彼女はメイドとして産み落とされたのではない。自分が生きるために、そうするしかないからメイドになったのだ。
そう、彼女はその根源から間違いをおかしていたのだ。
それからイザベラは祖父にメイドとして手ほどきを受けた。メイドの学校にも行った。いつだって彼女は全力だった、そうしなければ生きていけないから。そうするうちに彼女は神童として讃えられるようになっていた。
だが彼女の心は孤独だ。父も母もいなくなった。そして祖父には感謝していた、自分が生きられるのは祖父のおかげだからだ。けれど好きかと言われればそうではない。もちろん嫌いでもないが。
彼女はただ独り。その孤独をいつも笑顔という仮面で隠した。
だが心の中はいつも雨降り、泣いていたのだ。
そんなときだった。栗栖に出会ったのは。




