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第六話 老人の秘密


 パン屋を出ると老人はさっそくたこ焼きパンを食べ始めた。日本では行儀が悪いことだが、フランスでは普通なのだろうか、食べ歩き。


 たこ焼きパンとはその名の通り、パンの上にたこ焼きの乗ったパンだ。なんというか、美味しいものと美味しいものを混ぜてみましたどうです美味しいでしょ? とでも言わんばかりの安直な組み合わせの惣菜パンだ。けれど老人はそのパンを気に入ったのか、口ひげをたこ焼きのソースで汚しながらさも美味しそうに食べた。


 そんな様子を見ていると自分も一つくらい買っておけばよかったなと思う栗栖であった。


 老人はパンを食べ終わると、次にまた何かを言い出した。


 そろそろ俺も帰りたいなあ、と栗栖は思っていた。だから老人が「ステッション」と言った時、良かったと思った。ステッション――つまりはステーション、駅だ。どうやら老人は帰るつもりらしい。


 それにしてもこの老人はいったいどこから、そして何をしに来たのだろうか? そしてどこへ帰るのか。たった一人で言葉も通じぬ異国の地だ。不安はないのだろうか。けれど老人はパンを食べて満足したのか屈託なく笑っている。


「駅ですね、ウィ、ウィ」


 栗栖は老人を駅まで案内することにした。これは栗栖にとっても好都合だった。山崎の家から栗栖の家までは、途中に駅があるかたちとなる。だから家に帰る時、どうせ駅前を通るのだ。


 ここらへんは田舎で、駅といっても都会にあるほどの大規模なものではない。けれど田舎の中では比較的大きな駅であることは確かだ。空港へのバスも出ているし、新幹線だって停まる。きっと老人はいずれかの方法を使ってどこかへと帰るのだろう。


「ではこっちです」


 栗栖はまた老人を案内して、率先して歩き出した。


 老人はなにかを言っている。だが栗栖には分からない。ただ愛想笑いをする。それでどれほど歩いただろうか、駅が見えてきた。


「ほら、あそこがステーション、駅ですよ」


 栗栖は指差す。もちろん誰でも見れば分かるだろう。けれど老人があまりに喋るものだから、こちらも何か言わなければいけない気になったのだ。


「ウィ」


 老人はペコリと頭を下げると、歩き出した。案内はここまでで結構、ということだろう。


 後ろから見ると、実に姿勢の良い老人だった。まるで背中に太い針金が通っているようだ。意識もしっかりしているのだろう、どこをどう見てもボケている様子はない。


 だがいかんせん、この老人は日本という国のことを知らなかった。


 まずい――と栗栖は思った。


 老人が歩いてく。そこは横断歩道だった。しかし信号のない横断歩道だ。


 車が来ていた。


 外国ではどうか分からない、知らない。しかし横断歩道というものは当然あるのだろう。ビートルズのアビイ・ロードのアルバムジャケットでも見た。外国では車が横断歩道で停まるのだろうだろうか、停まるのだろうな。


 栗栖は免許を持っていなかったが、少しだけ道路交通法を知っていた。たしか日本でも横断歩道を渡ろうとしている人間がいたら信号の有無にかかわらず車には停車する義務があるはずだ。


 だがそれは形骸化しているルールだったのだ。


 日本ではそう――車は急には停まらない。


 しかし老人はとうぜん車が停まってくれるものとして歩いていく。


「待ってくださーい!」


 栗栖は声の限り叫んだ。


 だが老人がもう横断歩道に進入している。そして車の方もまるでブレーキなど踏む様子もなく突っ込んでくる。


 栗栖は考える間もなく走り出していた。逆に一瞬でもなにか考えれば、足は恐怖ですくんだだろう。


 とにかく栗栖は、そうしなければ老人は車に轢かれると思ったのだ。


 けたたましいクラクションの音。


 栗栖はタックルするように老人を巻き込みながら倒れ込む。


 閃光――それは栗栖が地面にぶつかった衝撃だった。そして交差していく栗栖と老人、そして車。


 間一髪だった。


 なんとか轢かれずに済んだのだ。


 車はまるで怒鳴りつけるようにまたクラクションを鳴らすと、猛スピードで走り去っていった。腹は立つがどうにもできない。むしろいまは轢かれなかったことを幸運に思うべきだ。


「まったく、なんて車だ。大丈夫ですか?」倒れ込む時、なんとか体勢を入れ替えて栗栖が下になったが、老人が怪我をしていないとは限らない。「立てますか?」


 老人はどうやら無事のようだった。


 驚いたように立ち上がると、自分の体になんの異常もないことを確認する。


「危ないですよ、日本じゃ車は信号がないと停まらないんです」


 どうせ通じないだろう、と思いながら栗栖はそういった。


 だが、老人は神妙に頷いた。


「本当に、その通りですね。歳はとりたくないものだ……昔ならこのくらい簡単に。いいえ、今はまず、貴方に感謝を。ありがとうございます、栗栖トウヤ」


「え、日本語?」


「はい、そうです。騙すようなことをして申し訳ありません。わたくし、W・S・Oから派遣されました、イザベラ・リシャールのS級メイド昇級試験、第三次試験の審査官、グランド・オブ・バトラーのフロンティと申します」


「え、つまり貴方は――ソフィアみたいな、イザベラの試験官ってことですか?」


「そうなります」


 どうしてイザベラの試験管が自分のところにいるのか、栗栖は疑問だった。


「さて、本当は後日郵送で結果を送るつもりでしたが、気が変わりました。栗栖様、いまからまだお時間はありますか?」


「ま、まあ」


「では少しお話しましょう。イザベラのことでも」


 そのイザベラという言い方には、どこか親しみのようなものが籠もっていた。


「貴方は……イザベラのなんなのですか?」


「わたくしは彼女の祖父です」


 決まりだった。栗栖はこの老人の話を最後まで聞くことにした。イザベラのことを知れる、良い機会だと思ったのだ。


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