第五話 パン屋にて
ふと、人混みの中に一人の老人が目についた。上品なスーツを着た老人だ。いまから社交界にでも行くつもりなのかもしれない。その老人は困ったような顔をして色々な人に話しかけている。
けれど日曜日の昼下がり、街を歩く人はみな急ぎ足だ。得体の知れない老人に話しかけられて、はいはいと話を聞く人間はいなかった。
どうやら老人は道を聞こうとしているようだった。
どうやら、というのは老人が何を言っているのか栗栖には分からなかったからだ。なにも年齢が過ぎて滑舌が悪くなっているとかそういうわけではない。そもそも老人が口からだす言語は日本語ではなかったのだ。英語でもない。もちろん中国語でもない。この流れるような美しい響きは――フランス語、たぶんそうだ。
栗栖はここ数ヶ月、何度もフランス語を聞く機会があった。だから分かったのだ。
どこかに暇をしていて、フランス語の分かる人はいないだろうか。
いないだろうな。
いるとしたら……俺か。
栗栖はあたりを見てみる。自分以外の人間はまるで老人などそこにはいないかのように過ぎ去っていく。なんて薄情な、と栗栖は思ったがもしも数ヶ月前までの自分だったらと思うと、たぶん触らぬ神になんとやら、無視を決め込んでいただろう。
しょうがないなあ、と栗栖は老人に話しかける。
「どうしましたか?」
けれど栗栖だってフランス語が話せるわけではない。
老人は白い髪をしていた。プラチナブロンドの髪、それは年齢のためかそれとも地毛なのか。染めている、というわけではないだろう。老人の目は白濁したバターのような色をしていた。
老人は話しかけられたことに気を良くしたのか、こちらが言葉など分からないのをお構いなしに流暢なフランス語でペラペラと何かを言う。
「えーっと、あの……」
なんとか解読しようと栗栖は耳を済ませる。
老人はこちらが助けになろうとしている気持ちを理解してくれているのだろう、もう一度ゆっくりと何かを言う。その中でかろうじて聞き取れた言葉があった。
パン、とそう言ったのだ。
日本語のパンは英語ではブレット。だがフランス語では「Pain」。つまりは日本で一般に使われる言葉とほとんど同じなのだ。もともとはポルトガル語らしいが、なんにせよパンはパンなのだ。
「パン? パン屋に行きたいんですか?」
「ウィ」
それはたしか肯定の意味を示すフランス語だ。
どうやらこの老人、この近くのパン屋さんに行きたいらしい。どこの、という指定はないようだ。というのも老人はセボン、という単語を使ったからだ。たまにソフィアが酒のつまみに使っていた言葉だ。セボン、は美味しい。つまり美味しいパン屋に行きたい、ということだ。
「任せてください、パン屋さんならオススメを知っていますから」
老人は目を細めた。とても嬉しそうに頷いている。
俺もずいぶんお人好しだ、と栗栖は思った。いくら暇だからって見ず知らずの老人に構うことなんてないのに。けれど構ってしまったのはきっと、イザベラと出会ったからだ。
栗栖はイザベラと出会ってから、彼女が好きになってから、フランスという国の人のことを無条件で好意的に見るようになっていたのだ。
あんなに美しいイザベラを育てた国だ、さぞ素晴らしい場所に違いない。
「案内しますよ」
とにかく言葉が通じないのでジェスチャーで老人にものを伝えようとする。これが案外うまくいくのだ。もしかして言葉が通じなくてもどうにかなるのではないか、とまで栗栖は思ってしまった。
栗栖が連れて行くつもりだったのは、山崎の家だった。ここらへんの人なら誰でも知っている、山崎パン店。けっこう有名で雑誌なんかにも紹介されることがあるらしい。栗栖は一度も行ったことはないが、前を通ったことくらいはある。
ついでに言うと、そこのパンは毎日食べている。イザベラが買ってくるのだ。パンが大好きなフランス人であるイザベラも認めるほど、山崎の家のパンは美味い。
あそこならこの老人も満足してくれるのではないだろうか。
それにここからなら山崎の家はけっこう近い。十分もかからないだろう。老人の足でも難なく行けるはずだ。
こっちへ、と手招きする。
こんなとき、イザベラが居てくれれば通訳になってくれて簡単にことが済むのにな、と思った。やっぱりメイドってのは凄いものだ。なにせイザベラに関してはなんだってできる完璧なメイドなのだから。
とはいえそれは無い物ねだりだ。今は栗栖一人なのだ。自分だけでやるしかない。
それに、別に道案内くらい言葉が通じなくてもできるのだ。こっちへ、こっちへと連れて行くだけ。強いて言えば老人がみちみちで話しかけてくる事だけが問題だった。なにを言っているのか全然わからないので、栗栖は日本人特有の愛想笑いを返していた。それでも老人は話すことをやめない。
やはりそこはフランス人、おしゃべりが好きなのかも知れない。
そのせいで、山崎の家についたときにはもう、栗栖は疲れてしまっていた。ただ道案内しただけなのに。
老人はパン屋を認めると、まるで玩具屋に来た子供のように足早に入店していく。袖振り合うも多生の縁、ということもあり栗栖も中に入った。
もしかして、と思っていたがその予感どおり店番をしていたのは友人の山崎本人だった。
「らっしゃっせー」と、やる気のない声がする。
どこか気だるげにカウンターに座っている。手には何やら本が持たれているが、まともに読むつもりはないのか、目は眠たそうだ。
「よお」
だが山崎は栗栖の顔を見て、すぐに目を覚ましたようだ。
「あれー、栗栖じゃねえか。どうしたんだよ、遊びに来たのか? ならラインでもしろよな」
「別に遊びに来たんじゃねえよ、客を連れてきてやったんだ」
山崎はフランス人の老人を見て、「いらっしゃい」と日本語で言う。
老人は何やら挨拶のようなことを言う。――ボンジュール。
「あれ、栗栖の爺さん……じゃねえよな」
「まあね。道で迷ってたからさ、ここまで案内したんだ」
「へえ、お前も暇だねえ」
「まあな」
と、言いながらも山崎は栗栖に感心しているようだった。
老人がパンを物色しながらなにかを言う。片手にトング、片手にトレー。どうやらパン屋をエンジョイしているようだ。
「え、なに。なんだって?」と、山崎。
「えーっと、たぶんどれがオススメか聞いてるんだと思う」
「栗栖、英語分かるのかよ。すげー」
「フランス語な。別に分かるわけじゃないけど、なんとなく言いたいことを予想してるんだよ」
「ふうん、そうか。おい爺さん、この店にあるのはどれもオススメ、最高の品さ。だからどれを食っても後悔はしないよ」
老人は日本語が分からなくても、言いたいことは分かってくれたようだ。
頷いて「Ca sent bon」とつぶやいた。
それは栗栖もよく知っている言葉だった。良い匂いがする。例えばソフィアなどは美味そうな料理が出てきたら必ずそう言うのだ。
「褒めてくれてるよ」と、栗栖は山崎に教える。
「えへへ、そうか。あ、そうだ。そこのたこ焼きパンなんてどうだ? たぶん外国にはないぜ、騙されたと思って食べてみたら美味しいと思う」
老人はまるで言葉が分かるかのように山崎の言ったたこ焼きパンをトングで取る。
「TAKOYAKI pain」
「そうそう、たこ焼きパン」
老人はそのけったいなパンを気に入ったようだ。トレーにのせてご満悦な表情だ。
それから、老人は何個かパンを買い込み店を出た。
「またこいよー」と山崎は二人に言った。




