第三話 イザベラのお暇
こぼれたワインを、イザベラは絶望的ともとれる表情で見つめた。
「す、すいません。早く拭かないと」
「なあ、イザベラ。やっぱりお前疲れてるんだって。ここはソフィアが片付けておくから、お前は今日一日休めよ。な」
「わたしでーす?」
「やれよ、ソフィア」
「しょうがないでーす、お姉さまは寝てればいいでーす。日本にはいい言葉があります、寝るより楽はなかりけり、でーす」
「す、すいません……」
イザベラは泣きそうになりながら立ち上がる。そして居間を出ていった。
「たぶん不安なんでーす」
「何がだ?」
「お姉さま、今まで何度もお屋敷をクビになってるでーす」
だんな、ちょっとどいてくださーい、とソフィアはカーペットを引っ剥がす。
「イザベラが?」
「はーい、たいていクビにされる前って、おやすみもらえまーす。だからお姉さま、もしかしたら自分がクビになるのかと心配したんでーす」
「そんなわけないだろ」
「そんなわけないでーす。でも、たぶんですがそういうのがトラウマになってるんだと思いまーす」
「というかさ、親父。クビうんぬんで気になったけどイザベラに給料とか払ってるのかよ」
「え、払ってないよ」
「は? 無給なのか」
「まあ、そうだね」
ワインを一口飲む父親。おいおい、と栗栖は頭を抱えた。
「つまりなにか、いままでイザベラは休みも給料もなしで働いていたのか」
「無給で無休だったわけだね」
「べつにそれ、上手いこと言えてないからな。というか払えよ、なんでタダ働きさせてるんだよ。ソフィアはまだしもイザベラは家のこといろいろやってくれてるだろ」
「わたしだってやってまーす」
「だって本人がいらないって言うから」
「だからってなあ……」
「それに考えてみなよ。母さんがいたとき、僕は母さんにお金を渡していたかい?」
「いやいや、母親とメイドは違うだろ」
この言葉に、ソフィアが妙な顔をした。
「なに言ってるでーす?」
「なんだよ、まさかフランスじゃあメイドは母親みたいなものって言うつもりか?」
「いや、そうじゃないでーす。だってお前の母親って――」
「ソフィアちゃん、喋りすぎ」
「おっと、そうでーした」
「なんだよ、感じ悪いな。二人してなんか俺に隠してないか?」
「隠してないよ」「隠してないでーす」
あきらかに隠している。
怪しい。が、追求したところで答えてくれるわけがない。
「それよりもトウヤくん」
「なんだよ」
「フォロー、したほうが良いんじゃない? イザベラちゃんのところに行ってさ」
「な、なんで俺が……」
「だってトウヤくん、イザベラちゃんのご主人様でしょ」
むっ。たしかに父親の言うことも一理ある。イザベラはきっと今、悲しんでいるだろう。あるいは自分がクビになるのいではないかと不安なのかもしれない。一刻も早く行ってやって、優しい言葉をかけるべきだ。
「フランス人女性の扱いは非情に難しいでーす。お前程度にお姉さまを満足させらるとは思えませーん。ですが、頑張ってみるでーす」
「うるせえな」
そう言われたら逆にこっちも行ってやりたくなるというものだ。
栗栖は二階にあるイザベラの部屋へと向かう。元は母親の部屋だった場所だ。イザベラが住み着いてから一度も中を見たことはない。だけど家具なんかを持ち込んだ形跡もないから、きっと中はそう変わっていないだろう。
部屋のドアをノックする。
「はい、なんでしょう」
中から元気のない声が聞こえてきた。
「あ、イザベラ。俺だけど」
「ご主人様ですか。どうぞお入りください」
イザベラはベッドに座っている。なにかをしているわけではない。ただ座っているだけだ。まるで人形のようだと栗栖は思って、それから、いいやこんな奇麗な人形は人の手では作り出せないと思い直した。きっとこれは神様が作ったのだ、そうに違いない。
栗栖は扉を閉めると、イザベラに笑いかけた。なんとかイザベラの警戒心を解こうとしたのだ。だがこれは逆効果だった。イザベラは栗栖の笑顔になにか不穏な物を感じとったのだろう、姿勢を正して固くなった。
やれやれ、失敗だ。
さてどうしたものか、どう話を切り出すべきか。それが分からず部屋を見回す。思った通り、部屋は母親が住んでいたときから何一つ変わっていない。変わっているところと言えば掃除が行き届いておりチリ一つ落ちていないことだけだ。
「あのさ、イザベラ」
「はい」
「あのー、なんだ。ここに来る前に他のところでもメイドをやっていたのか?」
「はい」
実に気まずい。
母親の部屋は栗栖の部屋とは違い洋室だ。置いてあるのはドレッサーと衣装箪笥、そしてイザベラが座っているベッドだけ。部屋の隅にはイザベラの私物である旅行かばんが無造作に置かれている。
「ソフィアに聞いたんだけどさ、そっちはクビになったんだってな」
栗栖は自分でもなにを言っているのか分からなかった。ただ、もっとこの場にふさわしい言葉があることだけは理解できている。だがその言葉がなにかは分からないのだ。それで迷った末でたのが、こんな言葉なのだ。
まるでドロップ缶から飴を出すようだった。一番好きな味は決まっている、だが中にはもうその味が残っていない。出てきたのはハッカ味。もうそれを口に入れるしかない。
「はい、そうです」
「ふ、不思議だよな。イザベラのことをクビにするなんて。だってこんなに――」
「奇麗なのに? そんな言葉は聞き飽きましたよ」
「いや、別にそういうことを言うつもりじゃないんだ。ただ……」
「みんな最初はそういうんですよ、けれど最後には私のことが嫌になるらしいです」
「……そうなのか?」
「はい。私は完璧過ぎるそうですよ。疲れるんだそうです」
「疲れる、か」
「私には分かりません。私はただ自分の思う通りにやっているだけなのに。それなのにどうして私がダメだと言われるのか。仕事だってきちんとこなします。ご主人様のことだってきちんと見ています、成長を促します。それなのに――それなのに。ねえ、ご主人様。私は貴方の前で笑ったことがありますか?」
「そりゃあ、あるよ」
「……そうですか。自分では分からないのです。私は今どんな表情をしていますか? 私は貴女にとって良いメイドですか? 私は……私は……」
「もちろん良いメイドに決まってるさ。いや、俺がいまなにを伝えに来たかって言うとさ、別に俺はキミに永遠に暇を出すつもりなんてないってことだ。とにかく今日一日ゆっくり休めばいい。ほら、外の天気、良いだろ?」
栗栖はカーテンを開ける。思ったよりも日の光は強かった。
「外に、ですか」
「ああ、行ってきなよ」
「そうですね、分かりました」
栗栖は窓際に立っている。イザベラはこちらを見ている。「どうした?」と聞くとイザベラは恥ずかしそうに「着替えます」と答えた。
「あ、ああ」
栗栖は部屋を出ていこうとする。
「ご主人様、私は昔ひとりのパーフェクトなメイドに会いました。その人に憧れてここまで来ました」
「うん」
栗栖は振り返る。
イザベラはメイド服のスカートの腰回りに手を当てている。へえ、そうかイザベラは下から脱ぐのだなと栗栖は呆然と思った。
「でも、私はその人になれるでしょうか?」
「さあ、知らないよ。けれど一般論で言うならキミはキミだ。他の誰でもないよ。だから誰かになろうとなんてしなくても良いんじゃないかな」
イザベラはふと笑った。けれど自分ではきっとどんな表情をしているのか分からないのだろう。そういう笑い方だった。




