第二話 酔っぱらい
居間には父親がいた。何をしているかと思えばこんな時間からアルコールを飲んでいる。なんてダメ人間。しかもそのダメ人間が二人。ソフィアもだ。
「このワイン安物でーす!」
「コンビニで買ったものだからね」
「まったくー、これだからイタリア産のワインは。やはりワインはわが祖国フランスのものが一番でーす」
「あ、シャンパンもあるけどどうする?」
「もらいまーす!」
「イザベラさん、シャンパンってどこにしまった?」
「これでしょうか?」
言われてイザベラがキッチンからワインの入ったボトルを持ってくる。ソフィアは千鳥足でイザベラに近寄ると「おーっと、ころんだでーす!」とわざとらしく叫んでイザベラの豊満な胸に飛び込んだ。
だがそこはイザベラ、華麗にバックステップしてソフィアをかわす。ソフィアは地面に向かってダイブした。
「危ないですよ、ソフィア」
「痛いでーす」
どうぞ、とイザベラが机の上にワインをおく。まったくこんな朝っぱらから風情もへったくれもない。コップだってワイングラスではなくて湯飲みで飲んでいる。
「親父さあ、ダメ人間の自覚ある?」
「ないでーす」と、栗栖の父親はおどけてソフィアの真似をした。
「だんなぁ、マネしないでくださいでーす」
「あっはっは、ごめんごめん」
いつの間にかソフィアが父親を呼ぶ時の言い方が「だんな」になっている。様がつかないだけで一気にならず者感が出た。
「あっ、といかこれシャンパンじゃありませーん! スパークリングワインでーす!」
「え、なにか違うの?」と父親。
「シャンパンとはフランスのシャンパーニュ地方が産地のスパークリングワインのことです。それ以外のものはソフィアが言う通り、ただのスパークリングワインですよ」
「へえ、そうなのか。トウヤくん知ってた?」
「知ってるわけねえだろ、こっちは未成年だ」
朝ごはんはいつものパンだった。バターロールをかじりながら、今日は何をしようかとまた考える。ソフィアがワインをラッパ飲みしている。それに合わせて父親が手拍子をとっている。イザベラは嫌な顔ひとつせずにテーブルにちらかったツマミ類の袋なんかを片付けている。
まったく夏休みの初日にしてはカオスな朝だった。
「ご主人様、コーヒーです。どうぞ」
「ああ、ありがとう。イザベラはご飯たべたの?」
「はい、もういただきましたよ」
「お前もこっち来て飲むでーす!」
「うるせえ酔っぱらい、お前も一応メイドだろう。ちょっとはしっかりしろ」
「メイドがみんなしっかりしているというのはお前の幻想でーす。しかしフランス人はみんなワインが好きでーす。だから飲んでるのが普通でーす!」
意味のわからないことを自信満々で言われると、まあそれなりに説得力があるものだ。
まったく、とイザベラはつぶやいている。
「やあねえ、お酒を飲む人って」
と、どこか芝居がかった調子でイザベラは言った。
「嫌いなのか?」
「まあ、好きではありませんよ。それに、お酒を飲んでお酒に飲まれる人はは最後に不幸になりますよ。ご主人様はゾラの『居酒屋』はご存知ですか?」
「知らんね、フランスの話?」
「ええ、自然主義小説の金字塔です。こんど寝物語にでも読んで差し上げましょうか?」
それはとても魅力的な提案に思えたが、しかし息が詰まりそうでもあた。誰が寝る前に長ったらしいフランス文学の読み聞かせをうけなければいけないのだ。
「ま、まあ今度ね」
「お姉さまも一緒に飲むでーす!」
「私はまだ仕事がありますから」
イザベラは部屋を出ていく。と、同時に酔っ払った父親が絡んでくる。
「ねえねえ、トウヤくん」
「なんだよ、酒臭いぞ」
「イザベラちゃんとどこまで行ったの?」
「はあ、どこも行ってねえよ」
「お前まさかお姉さまに手を出したでーす!」
「出してないって!」
「言っちゃいなよ」
「ことと次第によっては殺すでーす!」
「うるせえ酔っぱらいども! お前ら朝からなんなんだよ!」
栗栖が怒ると、二人は弾けるように笑った。箸が転んでもおかしいという感じだ。なんだか頭が痛くなってきたので栗栖は部屋を出ることにした。
自分の部屋に戻ろうと思ったのだ。
その前に、ふとキッチンを覗いた。イザベラは何をしているのだろうと思ったのだ。
するとイザベラはキッチンで頭を抑えてため息をついていた。
「どうした?」
「あ、ご主人様」
まずいところを見られた、というふうにイザベラが取り繕った笑顔を見せる。こういう作り笑いを栗栖は好きではない。なんだかバカにされたような気になる。
「イザベラ、言いたいことがあるなら言いなよ。酔っぱらいどもか? 俺が叱ってこようか」
「い、いいえ。そうではないのです。ただ少し疲れが溜まっているような気がして」
「疲れ、か」
考えてみればイザベラは毎日毎日メイドとして仕事をしている。休みらしい休みなんてここに来てから一度もとっていないだろう。たとえば栗栖が学校に行っている間に休むこともできただろうが、イザベラの性格上それは考えにくい。きっと主人がいない間もずっと家で家事をしていたはずだ。
「イザベラ、今日は休んだらどうだ?」
「いえ、そうはいきません。私にはやることがありますから」
「いいよ、俺が代わりにやっておくから。皿洗い? それとも洗濯?」
腕まくりをしてキッチン台に近づく。だが洗い物はもう終わっているようだった。ではやることとは? と、思ったらオーブンが鳴った。なにかと思って見ればチーズが焼き上がっている。
「お二人にこれを持っていくんです」
「あいつらのツマミか……そんなことしなくてもいいのに」
「いえ、ですが私はメイドですから」
「その考えでいくとソフィアもメイドだろ。でもあいつは家事なんてぜんぜんしないじゃないか。ああいうのを宿ろくって言うんだよな」
「ソフィアはコンパニオンですから。ああして旦那様のお相手をしているのも立派な仕事ですよ」
「俺にはただ酔っ払っているだけに見えるがね」
「まあ、そういうこともあります」
イザベラの立ち姿は疲れているにもかかわらず凛として立派だった。栗栖はどちらかといえば体調が悪い時は気持ちも落ち込んですぐにダウンするタイプだ。だからこういった気力で立ち続けるような人を尊敬するのだ。
こうなったらどうあってもイザベラに休みをあげたくなった。
栗栖は居間に行き、バカな顔をしてワインを飲んでいるソフィアに手招きする。
「なんでーす。わたし今から焼きチーズを食べるでーす。邪魔するなでーす」
「お前ちょっとこっち来い」
「なんでーす、お前にお前なんて呼ばれる筋合いはないのでーす」
ソフィアを廊下に呼び出す。そして「大事な話があるんだ」と切り出す。
一瞬、ソフィアが顔を赤くした。
「そ、そんないきなりなんでーす。そりゃあわたしは可愛いからお前が劣情を催すのもわかりますが、わたしにはお姉さまという心に決めた人が――」
「なんだその勘違い。そうじゃねえよ、イザベラを見てみろ。どう思う?」
「お姉さまですか? 今日もお美しいでーす」
「そうだな、でも俺が言いたいのはそういうことじゃない。分からねえか、イザベラちょっと疲れてるだろ」
「……言われてみればそう見えまーす。お前よく見てますね」
「まあな」
「そういうのキモいでーす」
「え、マジで、冗談やめろよ。普通だろ、いや普通だって。だって俺ご主人様だし。メイドの体調を気にするのは当然だろ」
「キモいと言ったのは冗談でーすけど、言われてキョドるのはガチできもいでーす」
やめよう、こんな会話。もう傷つくだけだ。
「と、とにかく! イザベラを休ませたいんだよ」
「それはいい考えでーす。いい主人とはメイドにきちんと休みを与える主人でーす。なんならわたしは毎日休みがもらいたいでーす。そんな就職先ありませんかー?」
「それはもはや無職だ」
「で、お前はわたしに何をしてほしいでーす?」
「イザベラを説得するのを手伝ってくれ。あの子、俺が休めって言ったくらいじゃ休まないだろ」
「そういうことですか。でしたら任せるでーす」
ソフィアは胸を叩いて歩き出した。この女の根拠のない自信、それだけは本当に他人が見習うべきところである。
「お姉さま!」
「なんですか?」
「お姉さまは今からお暇を出されます!」
「なぜ貴女がそんなことを決めるのですか」
「そ、それは……」
「なぜですか? 貴女にそのようなことを決める権利はないはずです」
まずい、あれはイザベラ……まさか怒っているのか?
目がマジだ、視線だけで人を殺せるほどの威圧感がある。というかなんでキレてんの? 休みをあげるって言ってるだけなのに。
「ひ、ひえ~」
ソフィアが撤退してくる。
「おっかないな、あれ」
「ダメでーす。怖いでーす」
「なんで怒ったんだよ、イザベラのやつ」
「たぶん言い方が悪かったでーす。もっと下手に出るべきでした」
なぜ休みをとってもらおうとしているのにこちらが下手に出なければいけないかはさておき、こうなればなんとしてでもイザベラには休んでもらう。
このまま無理をさせすぎたらそのうちに倒れてしまうのではないだろうかという心配さえある。
「よし、じゃあ一緒に行こう」
「わたし後ろにかくれてまーす」
「お前ほんとうにこういうとき役に立たないよな」
「わたしコンパニオンでーす」
こいつ、それを言ったらなんでも許されると思っているのではないだろうか。
なんにせよ栗栖はイザベラの元へ行く。イザベラは栗栖の父親にワインを注いでいる。
「な、なあイザベラ」
「今度はご主人様ですか。なんでしょう」
「今日一日、休みをとったらどうかなって思うんだけど」
「どういしてそこまで私を休ませたいのですか!」
「いや、だって疲れてるみたいだから……」
「私は疲れてなどいません!」
イザベラが力まかせにワインを机に置いた。そのせいでコップが倒れて、中に入っていたワインがこぼれた。
「あっ……」
ワインはまるで血のように流れ、カーペットを汚すのだった。




