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第一話 夢と親の死


 母親の夢を見ていた。


 夢の中の栗栖は幼かった。その分母親も若く美しかった。いや、彼女は死ぬその時まで美しかった。病魔に体をおかされて、体が動かなくなってもその美しさは最期まで損なわれなかった。


 病院のベッドに座っている母。顔は腫れ上がり体はむくみ、目はいつも充血していた。それでもその顔が美しく思えたのはなぜだろうか。たぶん一般の人間の美意識で見ればとうてい美しいとは思えない状態だった。きめ細やかだった肌も、焼けただれたようにボロボロになっえいた。


 それでも――そうだ、母親は笑顔だったのだ。


 栗栖が父親とお見舞いに行くと、彼女はニッコリと笑った。「お父さんと一緒にいい子にしてる?」と、いつもそう聞いた。栗栖は「うん」としか答えなかった。


 幼心に母が死ぬのだということはなんとなく分かっていた。けれど死ということそれ自体がよく分からなかった。結局、母の闘病は何年も続き、栗栖が中学に上がった頃に母は死んだ。


 肉体は火に焼かれ骨になり、骨は御影石の中に安置される。死んでしまったら何にもならないのだと栗栖は思った。思い出だけが記憶の中に残る。だがそれもやがて風化する。


 死んだばかりの頃は母親のことばかり思い出していた。けれど今はそうでもない。悲しみも忘れてしまっていた。


 けれど、突発的に見た夢のせいで、栗栖は無理やり母親のことを想起させられた。


 夢は昔の記憶の焼き増しだった。昔、家族で旅行に行ったことがある。そのときのことを細部は違うものの再現していた。


 あれは一体どこだったのだろうか、なにぶん幼い頃だったのでよく覚えていない。飛行機に乗っていき、言葉が通じないことにショックを受けたことを覚えているから海外であったことだけは確かだろう。おそらく欧州のどこかだった。


 家族三人で石畳の町を歩いていた。


 けれどそのうち、母親の歩みが早くなった。


「お父さん、お母さんが先に行っちゃうよ」


 だが父親は何も答えなかった。その変わりに栗栖の手を握った。


「ねえ、お母さんが行っちゃうよ! 待って、待ってお母さん!」


 栗栖はたまらず叫んだが、母親は振り返って微笑んだだけだった。


 母親は歩いていく。その行先にはそびえ立つ長大な塔がたっている。四股の茶色い塔だ。母親はそこに向かって歩いていた。


 正面という場所のない塔だった。どこから見ても前に見える、不思議な塔だ。


 母親があそこに行けばもう帰ってこない。そんな気がしていた。


「ねえ、お母さん! 待ってよ!」


 叫びながら栗栖は起き上がった。


 今まで見ていたのが夢だったと、そのとき気がついた。それくらいリアリティのある夢だった。


 額についた寝汗を手の甲で拭う。大きく息を吐く。まだ心臓が早鐘を打っている。どうしてこんな夢を見てしまったのだろう。


「ご主人様、どうぞ」


「ああ、ありがとう」


 水の入ったコップを差し出される。それを飲んだ。


 そして、寝ぼけた頭が一気に覚醒する。


「って、なにしてんだよイザベラ!」


「はい? いえ、ご主人様を起こしに来ただけですが」


「にしたってそんな、いきなりじゃ驚くだろ。もっとこう、存在感を出してくれよ」


「はあ、すいません」


 わけが分からないというような顔をしている。こっちだってわけが分からない。いきなり起きて水を差し出されたら驚くのは普通だ。それにいつもはこんなふうに起こしたりしないのに、どうして今日に限ってこんないきなり部屋にいるのだ。


 いつもなら、部屋の外から声をかけるのに……。


 手にしたからのコップを眺める。どうしてこんなものも用意されているのだろうか。


「ご主人様」


「ん」


 イザベラが手を差し出してくるのでコップを渡す。


「うなされていましたよ」


「……そうか」


 だから水を用意してくれたのだろうか。いつものことだが完璧な気遣いだ。


 栗栖はいま見た夢のことをイザベラに話そうかどうか迷った。人にされる夢の話ほどつまらないものはないからだ。けれど結局話すことにした。誰かに話せば少しは気が静まると思ったのだ。


「夢を見てたんだ」


「夢、ですか」


「ああ。母さんの夢だ」


 イザベラは何も言わない。だがその目が少しだけ悲しそうに伏せられた。


 そういえばイザベラはこの家のことをどこまで知っているのだろうか。母親が死んだ、というのは知っているのだろうか。それとも離婚したとでも思っているのだろうか。たぶんきちんと説明したことなど一度もない。父親はなにか言ったのだろうか、言わないだろうな。栗栖と同じで父親もできることなら母親の話題には触れたくないはずだ。


「俺の母さん、3年くらい前に死んだんだ。知ってるか?」


「はい、存じております」


 そうか、知っていたのか。


「病気だったんだよ。死ぬ前から入院しててさ、元気だったころは色々連れて行ってもらったりしたんだけど、俺がお見舞いに行く度に弱っていってるのが見て分かるんだよ。あれはつらかったなあ。そういうのって分かるか? 

 元気だった人間がやせ細って生気がなくなっていって、ああこの人はいま死に向かって歩いているんだなって感じるんだ。でも自分にはどうあがいても止めることなんてできない。

 あっちだって時間が止まったりしないことを知ってるから、心の中で死ぬ準備を始めてるんだ。悲しいぜ、死を覚悟した人間の目っていうのは」


「はい、はい……よく分かります」


「よくは分からないだろ。なんとなく分かっても、よくは分からない。こういうのって経験した人じゃないとさ」


 栗栖の手を、イザベラが握った。


 え――? と、栗栖はイザベラの顔を見る。彼女は切実な目をして栗栖を見ていた。


「私の父親も、死にました。病気でした」


「そ、そうなのか……」


 悪いことを言ってしまった。分からないだなんて、イザベラもきっと知っているのだ。死を目前に迎えた人間の美しさ、そして醜さを。


「ですから一緒ですね、私たち」


 ああ、と栗栖は頷く。


「イザベラも夢を見るのか?」


 なんだかこの能面をかぶったような完璧なメイドは夢すら見ない気がした。


「見ますよ」


「へえ」


「けれど悪夢はあまり見ません。楽しかったことばかり夢に見ます」


「それは良いね」


「小さいころ、エッフェル塔に行きました」


「エッフェル塔?」


 ああ、と栗栖は思い出す。あの夢の中でみたのはエッフェル塔だったのだ。名前が出てこなかったが、あれは確かにエッフェル塔だ。テレビなどで何度も見たことがある。


 しかしイザベラがその夢を見ているとは……やはりフランス人だからだろうか。


「はい、覚えておられますか?」


 覚えているか、という質問には妙な響きがあった。あきらかな誤用なのだ。正しくは知っていますか、だろう。


「ああ、知ってるよ」


「……そうですか。その幼い頃の思い出をよく見るのです」


「ふうん」


 落ち着いたところで立ち上がり、部屋を出る。


 汗臭いのでシャワーを浴びてくる。


 はあ、とため息をついた。今日から夏休みだった。いったい何をしようか、と栗栖は思っていた。何も思いつかないが……ゆっくりしようと思った。


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