第十四話 イザベラの二次試験
テストはその後、続々と返された。
返還される答案を見る度に、栗栖は高い水準で一喜一憂した。いままでの人生でこんないい点数をとったことがかつてあっただろうか? あったかもしれない、小学生の頃だ。あの頃は母親が生きていた。よく勉強を教えてくれたのを覚えている。
つまりはそれ以来の快挙というわけだ。
間違いなくイザベラのおかげだった。
そして全てのテストが出揃った。
栗栖の通う高校ではテストが全て帰ってくると、生徒一人ひとりにその点数が全て記入された小さな紙を渡す。そこにはクラスでの自分の順位と学年での順位が書いているのだ。
おそるおそる、栗栖は帰ってきた紙を覗き込む。
「あっ……」
「どうだった?」と、山崎が聞いてくる。
「お前は?」と、むしろ聞き返した。
「ぜんぜんダメ。赤点ばっかり。こりゃあ夏休みも補習だな」
夏休みはもう来週に迫っていた。今年はいったいなにをしようか、海にでも行こうか。イザベラがいれば色々なことができる気がした。
そう、イザベラが居れば。
目に涙がたまる。俺はよく頑張った、と自分にそう言い聞かせる。
「ふう、帰って周回だな。あれ、どうした栗栖。泣きそうだぞ。そんなに点数悪かったのか?」
「いや、違うんだ」
山崎は栗栖の点数が書かれた紙をひったくるいようにして取った。栗栖はことさら抵抗しなかった。
そして山崎のやつは書かれた点数と順位を見て、その場で飛び上がって驚いた。
「な、なんだこれ!」
「すごいだろ?」
「すごい、すごすぎる! お前どうしちゃったんだよ!」
やはり世界史の100点満点が目を引く。だがそれ以外にも全て高い点数だ。苦手科目の英語です80点オーバー。これで順位が低いはずもない。
栗栖はクラスで一番成績が良かった。学年では7位とふるわないが、それでも目標の10番以内である。前回のテストが100何十位だったと考えたら大躍進だ。
いつもクラスで1位をとっているガリ勉が「なんでだよ!」と叫んでいる。まさか栗栖に負けたとは本人も思っていないだろう。「誰が俺より良い点数なんだ?」と、悔しそうだ。
「お前すごいな、どうしたんだよ」
「そりゃあ、家庭教師が良いからな」
「この前のロリメイドか?」
「いいや、また違う人。もっと奇麗で、もっとい美しくて、パーフェクトなんだ」
栗栖はそう答えた。
それから帰り道はスキップして帰った。早くイザベラにこの結果を報告したかったのだ。
快晴の空はまるで栗栖の浮かれようを暗示しているようだ。
言いようのない高揚感。しかし緊張が少々ブレンドされる。どうして自分がドキドキしているのか分からない。もしかしたらイザベラに褒めてもらえるかもしれないと期待しているからだろうか。だとしたらかなり単純な性格をしている。
家の前にはソフィアがいた。彼女もまた幸福を噛みしめるような顔をしていた。
「お前、いま帰りでーす?」
「おう、そういうソフィアもか」
「そうでーす。おたがいお帰りなさいでーす」
二人は同時期に試験を受けた者たちとして、お互いになにか通じ合った。頷きあって玄関の扉を開ける。
「「ただいま!」」
という声が揃う。
奥からイザベラが早足で出てきた。
「お帰りなさいませ、ご主人様。そしてソフィア」
「お姉さま、見てくださーい!」
ソフィアはさっそくふところから何やら紙のようなものを出した。栗栖には英語でよく読めない。
「そうですが、ソフィア。おめでとう」
しかしそこはイザベラだ。一瞬で書かれた内容を理解したようだ。
「これでわたしも晴れてB級メイドでーす! ひゃっほーい!」
「はいはい、騒ぐのはそれくらいにして。どうぞ中へ。そちらで話は聞きますよ」
イザベラはご主人様は? と、流し目を送ってくる。背筋がぞくぞくするほどに美しい目つきだ。
「ああ、俺もいい出来だよ」
「それは良かったです」
三人は居間に移動した。父親がソファに座ってコーヒーを飲んでいる。テーブルの上には年代物のカメラが置かれている。どうやらメンテナンスをしていたようだ。
「あー、おかえり二人とも」
「おう、親父。いたのか」
「いたさ、ここ僕の家だもの」
「旦那様! わたしB級メイドになったでーす!」
「おお、そうかい。そりゃあ良かったね。でも道はこれからまだまだ長いぞ」
栗栖の父親は知ったような口を聞いて満足そうな顔をしている。記念に写真でも撮ろうか、と古いライカのカメラを手に取る。
ソフィアはドヤ顔でポーズをとった。
パシャリ。
「どうでーす?」
「うん、可愛く取れたと思うよ。後で現像しておくよ」
この家にはあまり使われていないが、父親の仕事部屋である暗室があった。
「旦那様の腕は信用していまーす」
どうでもいいが、どうして栗栖の場合は「お前」呼びで父親は「旦那様」なのだろうか。本当にどうでもいいが。
「それで、ソフィアはB級メイド。ご主人様もテストで良い点数をとられたのですよね?」
「へえ、トウヤくんも? どうだったの?」
「どうもこうも、これを見ろ!」
栗栖は机の上にばん、と点数の書かれた紙を置いた。
イザベラ以下、三人がそれを覗き込む。
「まあ」と、イザベラ。
「ほう、凄いじゃないか」と、父親。
「でーす」とソフィア。
「いやあ、本気でやったらこんなにできるもんなんだな」
イザベラは破顔した。
「そうですよ、ご主人様。人間本気でやればできないことなんてありませんよ」
「本当でーす。わたしもB級になれたくらいでーす。ああ、まるで夢のようでーす」
「今夜は寿司でも食べに行くかい?」
その言葉にイザベラとソフィアの目が輝いた。どうやらこの二人、寿司を食べたことがないようだ。父親のいう寿司とは当然回転寿司のことなのだが、外国人の二人からすればそれでも嬉しいのだろうか。
「いやあ、今日はどうやらめでたい日らしいね」
「そうでーす、めでたいついでにもう一つ」
ソフィアがふわりと立ち上がると、スカートの裾をつまんだ。そして深々とお辞儀をした。彼女のこんな真面目な動作は初めて見た気がする。
それに対してイザベラはなにかを感じ取ったのか、頷いて襟元を正した。
「お姉さま。いいえ、イザベラ・リシャール。貴女に渡すものが一つあります」
「はい、謹んで」
ソフィアはいつもの砕けた口調もやめて、しっかりとイザベラを見据えている。
いったいなにが始まるのだろうか、声すらかけられないほど引き締まった雰囲気だ。
「申し遅れました不敬をここにお詫びします。私、B級メイド、マリー・ソフィ・ド・トゥールーズ=ロートレックはイザベラ・リシャールのS級昇格試験、その二次試験の審査官として貴女を見ていました」
「はい」
と、だけイザベラは答える。どこかそんな気がしていたのよね、というような返事だった。
だがこれには栗栖と、そしてついでに栗栖の父親が驚いていた。まさかソフィアがそんな理由でこの家にいたとは夢にも思わなかった。
「そして私はここ数週間、貴女の元で様々なことを教わりました。勉学もそうですし、メイドとしての仕事もそう。はてはその矜持までを貴女から得ました。結果として私はB級メイドへと昇級を果たしました。これはひとえに貴女の力であります」
「いえ、それはソフィア。貴女の頑張りですよ」
「私一人では無理でした。さて、二次試験の内容に乗っ取り、私は貴女が人を育てる力があるか、というものを見極めました。これは人の上に立つS級メイドには、他人を導く力も必要であるということで考案された試験です。異論ありませんか?」
「はい、ありません」
「私はその観点に則って貴女をずっと見てきました。そして今日、確信しました。貴女は私たち数多のメイド上に立つべきお人です。つまりは――」
「はい」
「イザベラ・リシャール。私は貴女を推挙します。二次試験、突破おめでとうございます」
「はい、ありがとうございます」
二人はお互いに頭を下げた。
そしてその頭が上がった瞬間、ソフィアは今まで通りのソフィアだった。
「というわけでお姉さま、お姉さまにも良いことがありましたでーす!」
「まったく、貴女という人は」
イザベラは苦笑いを浮かべている。
「じゃあさ、二次試験が終わったってことは、ソフィアはフランスに帰るのか?」
栗栖はちょっとだけそれが気になった。
「別に帰りませーん。まだ休暇中でーす」
その言葉に少し安心している自分に気がついた。こいつがいなくなると家が祭りのあとみたいに寂しくなりそうだ。
「あらご主人様、そんなにソフィアがいるかどうかが心配ですか?」
「いや、だからそういうのじゃないって」
「まったくもー、わたしは罪づくりな女でーす。こんな好かれて、まあ悪い気はしないでーす」
「お前も冗談やめろよ」
「あら、意外とソフィアは冗談ではないのでは?」
「ちょ、お姉さま! 冗談に決まってまーす!」
――パシャリ。
と、音がなった。
見れば父親がカメラを構えている。
「なんだよ、親父」
「いや、ずいぶん仲良しだなと思ってさ。一枚撮っておこうかと」
さて、と父親はカメラを片付ける。そして寿司に行きますかと宣言するように皆に言った。
「やったでーす!」
「ご主人様」
と、イザベラが栗栖にだけ聞こえるように耳打ちしてくる。
「なに?」
「……あの、ありがとうございます」
「なんでありがとうなんだよ」
分からなかった。
「だってご主人様がいなければ、二次試験の突破もありませんでした」
「そんなことないだろ」
「いいえ、そうですよ。だって私一人でソフィアの相手なんてできませんもの。さじを投げなかったのはご主人様がいたからですよ」
イザベラはいたずらっぽく笑う。その笑顔はなんて素敵なのだろう。
「おおい、早く行かないと置いてくぞ」
「わたし大トロ食べるでーす!」
先に行った二人が呼んでいる。栗栖とイザベラは顔を合わせていたことが少しだけ恥ずかしくなって歩き出した。だがその歩みは同時だ。二人は同じ歩幅で歩いてく。
空には蒼穹が広がっているのだった。




