第十四話 テスト採点の裏側
放課後になってからかなりの時間が経った。もう生徒はあらかた帰ってしまっただろう。今も学校内に残っているのは部活動に熱心な運動部の学生か、盛りきった不良生徒かのどちらかだ。いや、もうそんな時間も過ぎてしまったか。
時刻は夜九時。英語教師、鬼怒川タケシは人のいない職員室で一人テストの採点をしていた。
時計を見ていなかったせいで正確な時刻が分からなかった。それだけ集中していたのである。
鬼怒川は生徒たちからは鬼瓦という、おそろしく安直なあだ名で呼ばれている。別にそれ自体本人は気にしていない。さすがに面と向かって言われれば注意はするが陰でなんと言われようと構わないし、教師として生徒と必要以上に馴れ合うつもりはないと思っていた。
こういったあだ名も生活指導を務める自分への畏怖からくるということもよく知っていた。自分も学生のころはたしか部活動の顧問である体育教師を不名誉なあだ名で呼んでいたはずだ。今は自分がその立場になっただけである。
鬼怒川は幼い頃からずっと柔道をやっていた。大学時代には国体の強化選手にも選ばれた。悪いタイミングで怪我をしたせいでオリンピックにこそ行けなかったが、あの怪我がなければあるいはどうなっていたのか分からない。
もっとも、その怪我のおかげで選手としては一線を退きこうして教職者としての道を進んだのだ。
人生なにがあるのか分からない。30も半ばのこの歳になって本当にそう思う。
このいかにも純日本風な強面の鬼怒川、意外なことに担当科目は英語である。かつてはオリンピックを夢みて熱心に英語の勉強をした鬼怒川。気がつけば教師としてもその教科を担当していた。
鬼怒川のモットーは文武両道である。尊敬する偉人は三国志に登場する呂蒙子明。男子三日会わざれば刮目して見よの語言となった漢である。最初武官として呉の孫策に使えたが、後年一念発起して勉学を収め文官としても活躍した。まさに自分にぴったりな人物といえる。
この鬼怒川、テストの採点という教師がやる仕事の中でもっとも地味な作業を後回しにすうることはない。テストの終わったその日の夜には一気呵成に仕上げてしまうのである。
これはもちろん生徒たちのことを考えてのことだ。真面目に勉強したものであればどうあれ、自分のテストの点数が早く知りたいというものだ。
ならばこちらとしてもその気持に答えてやるべきだろう。
そのためにどんなに時間がかかろうと、鬼怒川には持ち前の体力でなんなくそれをこなす自信があった。
鬼怒川には妙な癖があった。というよりも趣味というべきか。
テストの採点が終わった後、クラスごとに解答用紙を点数順に並べかえるのだ。最終的には出席番号の順番に戻すのだが、どうしてかこの行為をしてしまう。それはかつて科挙の試験にさいして行われた行為とよく似ている。中国全土から集められた優秀な人間たち。その人間たちが命をかけてまで挑んだ科挙の試験。その解答は何千枚の解答用紙となり点数順にうず高く積み上げられたという。
そして一番上の最優秀の者の解答が、他の並み居る者の解答を押しつぶすことから「圧巻」という言葉が生まれた。
圧巻には程遠い量ではあるが、全てのクラスのテスト用紙を並べてみれば壮観な光景ではある。自分の机だけではなく隣の教師の机にもテストは侵入している。5クラス分のテスト用紙たちだ。
一番上に来たテストは一番いい点数の生徒のものだ。たいていは毎回同じ優秀な生徒が前に来る。鬼怒川は心の中でいつものメンバーと呼んでいる。
だが時々だが下剋上は起こりうる。そういう時、鬼怒川は言いようのない嬉しさを感じる。上に来た生徒はきっといつも以上に頑張ったのだろう。とうぜん、いつも上にくる生徒はいつも頑張っているのだ。だがたまに頑張った生徒をことさら可愛がってしまうのはしょうがないだろう。
この日も、一クラスだけその下剋上を達成した生徒がいた。一番でこそなく、惜しくも二番目に点数の高い生徒にも破れたが、それでも堂々の三着につけた生徒だ。
名前は栗栖トウヤ。
この生徒か、と解答用紙を見ながら鬼怒川はその鬼瓦的相好を崩す。
鬼怒川は口にこそ出さなかったがこの生徒を気に入っていた。それはもちろんホモだとかそういうのではない。彼の名誉のために言っておくが彼はロリコンでもない。ただ生徒として気に入っているというだけだ。そのために依怙贔屓はしないようにしているが。
別にこの前まではただの目立たない生徒だと思っていた。だがマラソン大会だ。あのときに全力で走っている彼を見て鬼怒川は心を打たれた。
高校生くらいの若者の中には物事に本気で取り組むことを嫌うものも多い。それはきっと自分のちっぽけな自尊心を守るためだ。本気でやってダメだったら立ち直れないとでも思っているのだろう。何も持っていないくせに若さによって世界の全てを手に入れたような万能感。自分はガチればなんでもできるという思い込み。
そういう若者は自分が本気でやってもできないことがあると証明されるのが怖いのだ。だから最初から手を抜く。本気でやらなければ、少なくともまだ本気を出していないだけという言い訳はできる。
だが違うのだ。無様でも不格好でも、本気でやり続けることによって得るものもある。鬼怒川はできれば生徒たちにそのことを知ってもらいたい。
栗栖トウヤはそれを体現していたように思える。
運動でも目立つ生徒ではなかった。勉強も同じだ。平均より少し下くらいの生徒だっただろう。それがマラソン大会であの準位。そうとうな努力をしたに違いない。
加えてテストでもこの点数。
鬼怒川はますます栗栖トウヤのことを好きになった。
一人ほくそ笑んでいると職員室のドアが開いた。
誰か、と目をやる。入ってきたのは同じ学年で世界史を受け持つ小野寺ハルコだった。二十代後半の小柄な教師で、いつも赤いフレームのメガネをかけている。生徒からの評判は良い、当然、教師連中からの評判も良い。
鬼怒川はひそかにこの女教師に懸想していた。といってもまだ直接的なアプローチは何もしていない。数日後に控えた教師たちの飲み会でなにかしらアピールをするつもりではあった。
「ああ、鬼怒川先生。まだ残っていたんですか」
「小野寺先生こそ、もう遅いですよ」
「あはは、生徒指導室でテストの採点をしてました。家だとうるさくて集中できないものですから」
たしか小野寺は実家ぐらしで年老いた両親と暮らしているはずだ。二年にはいってすぐの新年会で、母親にそろそろ結婚しろと急かされているとぼやいていた。
「私もですよ。あ、すいません。ちょっと机の上を使わせてもらってました」
鬼怒川の隣の席が、小野寺の席だった。その上にはいま採点を終えたテスト用紙が置かれている。
「あれ、もう採点を終わらせたんですか? たしか鬼怒川先生の教科は今日がテストでしたよね」
「ええ、まあ。生徒たちのために早く採点をしてやろうと思いまして」
「へえ、偉いですね。私は3日もかかっちゃいましたよ。あれ……このテスト」
そう言って小野寺が注視したのは、無造作に一枚だけ置かれた栗栖トウヤの解答だ。今のいままで見ていたので、すぐそこに出ていたのだ。
「ああ、その生徒ですか。いやね、いつもは赤点ギリギリなんですが今回はよく頑張ってますよ。87点ですからね。ちょっとテストを難しくしすぎた気もしたんですが、これで言い訳ができますよ。お前ら栗栖ですらいい点数なんだぞ、もっと頑張れ――ってね」
「あ、ダメですよ。生徒の前で一人だけを名指しにしたら」
「そうですか? まあ栗栖は目立ちませんがクラスで浮いているわけでもないですし、むしろかなり受け入れられていると思いますから、それくらいなら大丈夫ですよ、きっと」
いつも隣にお調子者の山崎の姿もあることですし、と付け足す。
「そうなんですか、栗栖くんはそっちでもいい点数なんですね」
「そっちでも、というと?」
「私の方でも栗栖くん頑張ってましたよ。ちょっと驚いちゃったなあ、だって今までそんなに成績の良い生徒じゃなかったから」
「何点だったんですか?」
「それがですね、満点なんです」
「満点って、100? そりゃあ凄い」
「学年で一人だけですよ。こっちはちょっとテストが簡単過ぎたと思って、最後にとびきり難しい問題を入れといたんですけど。それも答えられちゃいました。あはは」
鬼怒川は栗栖トウヤがますます気に入った。どうやら苦手科目だってであろう英語だけに力を入れたわけではないようだ。
栗栖トウヤは一皮むけたようだ。
「良いことですな」と、鬼怒川は言う。
「ええ、とっても」
さて、私は帰ります、と小野寺は小さなカバンを持つ。私も行きますよ、と鬼怒川も席を立った。採点は終わったのでテストはこのまま学校に置いていく。
職員室の電気を消し、駐車場まで二人で歩いていく。どうやら教頭先生はまだいるらしく、戸締まりの必要はなかった。
「ふう、やっとテスト期間も終わりましたね」
外にでると、小野寺が星を見るように空をあおいだ。
「そうですね、学生からすれば今からが楽しい夏休みですね」
「あはは、生徒たちは良いですねえ。先生たちは夏休みも毎日仕事なのに。私、先生も夏休みは休んでるもんだと思ってました」
「そうなんですか?」
「あはは、でも実際教師になってみてから違うって分かりました」
快活に笑う女性だった。裏表の無さそうな笑顔が素敵だ。鬼怒川はつい先日、飲み屋で仲良くなった外国人から良いことを聞いた。
『フランス人からすれば日本人は奥手でーす! 相手が素敵だと思ったらすかさず褒めるでーす! それが男の甲斐性でーす!』
妙な訛りのある、どうみても未成年の女の子だったが。だが本人は21歳だといいはり、店員に外国の免許証まで見せていた。
鬼怒川はその外国人にいつの間にか恋の相談をしていたのだ。
そこで得た知識、方法を今こそ使うべきだ。
「あの――小野寺先生」
「はい、なんですか?」
小野寺は自分の軽自動車の鍵を開けた。赤い小さな車だった。テレビで人気の女優がCMをやっている。若い子には人気の車らしい。
「いえ、ただ笑顔が素敵だなあ、と思いまして」
「え? あ、あはは。なに言ってるんですか鬼怒川先生!」
夜だというのに、暗いのに、それでもはっきり分かるほどに小野寺は赤くなった。
「いえ、すいません。変なこと言いました」
鬼怒川も言ってしまってから後悔した。言うにしてももっとしかるべきタイミングがあっただろう、と自責する。
「もう、変なこと言わないでくださいよ。それってセクハラですよ」
とはいうものの、小野寺はそこまで嫌だと思っていないようだった。
笑いながら自分の軽自動車に乗り込む。そして窓ガラスを下げて「では、明日」と、どこか潤んだ瞳で鬼怒川に言った。
「ええ、また明日」
軽自動車は軽いエンジン音を立てながら走り去っていった。
一人残された鬼怒川は、どうやら自分の言葉が悪いように作用しなかったのだということに気がついた。
どうやらあの外国人の言うことは正しかったようだ。鬼怒川は名前を忘れてしまった外国人女性に感謝した。たしかとてつもなく長い名前だったことだけは覚えていた。




