第十二話 ラストスパート
花巻スグルは高校二年生である。
彼は今、ゴール目指して最後の関門となる長い登り坂を走っていた。
現在の順位は4位。いいペースだ。彼はスタートからこっち、ずっとこの位置につけていた。というのも彼の前を走る三人は通称ビックスリー。三年の陸上部が三人。どいつも長、中距離の選手たちだ。まさに専門家、誰も勝てるなんて思っていない。だから花巻が走る4位が普通の生徒からすれば実質1位のようなものだった。
花巻は帰宅部である。しかし、自称最強の帰宅部である。
彼は中学からバスケットボールをやっていた。身長は高校一年のときには180センチオーバ。最近ではさすがに成長も止まりかけているものの、この前の身体測定では183センチだった。
バスケットボールをやっているときのポジションはセンター。走れるセンターとしてチームでも信頼されていた。だが、彼は高校に入ってしばらくしてバスケットボールをやめた。理由は単純だ、その当時の三年生とソリが合わなかったのだ。
花巻だって中学三年間を体育会系の部活で過ごした実績がある。だから多少の上下関係というのにも慣れているし、入学するまでは先輩たちと波風立てずに上手くやっていける自信もあった。
だが、無理だった。
今にして思えばただ自分が青かっただけなのだ。だが一年前の花巻は自分よりも下手な先輩たちにでかい顔をされるのが気に入らなかった。だがそれだけなら我慢できた。問題はその先輩たちが、まるで女の腐ったような陰湿ないじめをしてきたことだ。
発端は花巻がバスケ部でレギュラーを獲得したことだった。それまでセンターをしていた当時の三年は、花巻と入れ替わりに当然ベンチに行くことになる。けれどそれに周りの生徒たちは良い顔をしなかった。
練習中は無視をする。気を抜けば後ろからボールをぶつけられる。自分のユニフォームを隠される。靴に砂利を入れられる。極めつけは試合中でもパスが来ないことだった。絶対に自分がフリーでもパスがこない。これには花巻もキレた。こんな部活ならばやっている必要がないと、退部したのだ。
今にして思えば、その先輩たちを一発ずつ殴ってやればよかった。けれどやっていたらやっていたで問題になっていただろうから、やらなくて良かったという考えもある。
花巻をいじめていた三年生たちはもう卒業してしまった。そのときの二年が今は三年で、花巻たちは二年生だ。昔の仲間からは部活に戻ってこいと誘いを受けている。だが花巻はそれを断っていた。今さらバスケ部に戻っても自分の異場所など無いだろう。それに、部活どうのない青春というのは時間がたっぷりあって、それはそれで良いものなのだ。
だから彼は帰宅部だ。しかし、最強の帰宅部だ。他の帰宅部の奴らとは一線を画する存在だと思っていた。
今だってそうだ。彼は二年生の中だけを見れば、陸上部すらも抑えてトップを走っている。もちろん本気でやっていないやつらが大多数だろう。だが彼は本気だった。
なぜか、それは恋をしていたからだ。
彼は最近、同じクラスの大葉アサミといい関係だった。このマラソンが終われば告白するつもりだった。そのためには上位の成績をとって目立つ必要がある。なにせマラソン大会で上位の成績をとれば、女子たちが迎え入れてくれるようなものだ。
男子はまだほとんど帰ってきていない。そこへ颯爽と走っていく自分。これは否が応でも目立つ。その姿は絶対に大葉の目にも映るだろう。
そうなれば自分の株があがることも間違いなし。
そのために、彼は今、本気で走っていた。
といってもこれは突発的な思いつきだった。昨日までは彼も本気で走るつもりなどなかったのだ。適当に友人と話をしながら一応時間内にゴールすれば良いと思っていた。
だが昨日の夕方、大葉と一緒にバスに乗っているときに言われたのだ。
「わたし、ああいう行事で本気を出さない人って嫌いなんです。そういう人ってきっと、本当に大切な時でも本気を出せないんだわ」
その言葉に花巻は奮起したのだった。
よろしい、じゃあみせてやりましょう俺の本気を。
そう思って走り出した花巻。
実際やってみたらかなり良いところまで来ている。これで4位でゴールして、大葉に言うのだ。
――どんなもんだい、これが俺の本気だぜ。
それで、告白するのだ。
二人の今の関係は友達以上恋人未満。時々一緒に帰る。ほとんど毎日ラインをする。一度だけ休日に会ったこともある。とはいえこれは偶然遭遇したのだが。けれどそのあと少しだけ仲良く慣れたのは事実だ。
ここらで一歩踏み出すべきだ。花巻はそう思っていた。
つづらに折り重なる登り坂。その頂点はうまいこと隠れて見えない。だがもう近づいていることは確かだ。
花巻のペースはこの登り坂に入るまで、ほぼ一定だった。だがそのペースが先程、大きく乱れた。
どういうわけか坂の下にメイドが立っていたのだ。それもとびきり奇麗な外国人。そのメイドは走ってくる生徒を見ているようだった。
その表情はどこか憂いを帯びており、想い人を待つような目をしていた。あんな奇麗な人にそういった顔をさせる色男がこの学校にいるのかと正直嫉妬した。
だがすぐに大葉のことを思い出した。
――自分には大葉がいる!
厳密には違う、今からそれを掴み取りに行くのだ。
だがそのメイドのせいでペースが乱れたのは確かだ。あまりの美しさに息を呑んだせいで、呼吸のペースがめちゃくちゃになったのだ。
もっとも、その時振り返ってみれば5位との差はそれなりにあった。6位の生徒は5位のすぐ後ろにいてどちらが勝つかは神のみぞ知るだが、自分のところまでは追いついてこないだろう。そう高をくくった。
その油断があったから、花巻は登り坂に入った途端に少しだけペースを緩めたのだ。
だがいま現在、それが間違っていたと確信した。
何者かが追ってきている。
それも凄まじい速さでだ。まるでターボエンジンでも積んでいるのではないかという力強い走りだ。後ろを振り返る余裕はない。だが確実に足音は聞こえている。
逃げるように走る。
だが後ろにいる生徒はぴったりと背中についてくる。もしや女子生徒という可能性はないだろうか、いや違うだろう。この登り坂で自分の走りについてくる生徒が女子であるわけがない。
登り坂の終わりが見えた。
と、同時に後ろにいた生徒が前に出てくる。
花巻も必死に足を動かす。
並走。
だが横を見る余裕すらない。全力で走っているのだ、もう前しか見ていない。
これが終われば最後200メートルの直線。そこで勝負をしかける。絶対に勝つ。
登り坂が終わる。
――よし、ここだ!
花巻はペースを上げた……その瞬間、目を疑った。
横に並んでいた生徒が花巻よりもさらに速いスピードで走り出したのだ。
誰だ、どこのどいつだ? 二年生だ。だが誰かは分からない。判断する余裕がない。
凄まじく速い。次第に距離が離れていく。いったいどこにそんな力を残していたのだか。
花巻も負けないように走るが、心のどこかでは自分の負けをすでに認めていた。
自分を抜かした男がゴールしていく。それから数秒遅れて花巻はゴールである正門を通った。
……ダメだったか。
ゆっくりと歩きながら呼吸を整える。なめていたわけではない、要所要所で少し力を抜いたが全体で見れば確実に本気だった。もう一度同じ走りをやれと言われてもできるか分からない。
だからこれは完敗なのだ。
いったい自分を打ち破った二年生は誰なのだろうかとあたりを見る。
いない、と思ったら男子生徒が一人倒れている。たしか名前は栗栖だっただろう。珍しい苗字だったから話したことはないがよく覚えていた。
――あれ、あいつって俺と同じ帰宅部だったよな。
そう思った瞬間、これは最強の名も返上だなと笑った。
大葉が近づいてくる。その手にはタオルとドリンクが。一瞥くれて笑いかけるが、ちょっと待ってと手で制した。やっぱりあっちも俺のこと好きだよな、と確信する。
それは後回しにしておいて栗栖に近づく。
「おい、お前」
声を掛けると栗栖は気だるそうに顔をこちらに向けた。おいおいこいつ死んでるんじゃないか? 少なくとも死にそうに見える。
「お前」と言ってから息を整える。「走った後にいきなりぶっ倒れると体に悪いぞ。ちょっと息整えるために歩けよ」
そういって手を貸す。
起き上がろうとする栗栖は花巻が思うよりも軽かった。
「あ……ありがとう」
「こちらこそ」と、答える。
全力でやって負けたのだ。悪い気持ちじゃなかった。
今度はこちらから大葉に近づく。
「花巻くん、すごかったね! 5位だよ!」
「おう」マラソン大会が終わるまで、まだまだ時間があった。だからゆっくりと、「なあ、ちょっと話があるんだけど」
そう言って、花巻は大葉の手からドリンクを受け取った。




