九七話 見えない目印
濃厚な緑の匂い。全身を包み込むような圧倒的な自然の香り。
なんとなく心が安らぐような匂いではあるので、カンジが好んで樹海の散策に訪れているという話も分からなくはない。
樹海は文明の敵ではあっても人間の敵ではないという事なのだろうか。
「ほら、見ろよラス。この木は枝を折ってもすぐに生えてくるんだぜ」
「カァーッ、どうなってんだこりゃあ!」
好奇心旺盛なラスが興奮する姿に、カンジは自分の庭が褒められたかのように誇らしげだ。樹海の木々は多種多様と聞くが、よく出入りしているだけあってカンジは樹海の木に詳しいらしい。……だが、それはそれとして。
「いたずらに樹海の木を折るんじゃない。駐屯地で念入りに言われただろうが」
事前に調査機関から連絡が届いていたらしく、あっさりと駐屯地の検問は抜けられたが、その際には『樹海では慎重に行動するように』と念を押されたのだ。
どう考えても無意味に木の枝を折るような真似は論外である。
「というかカンジ、お前はいつも検問所を通らずに出入りしてるだろう」
「おうっ、面倒だからな!」
くそっ、なぜこれほど晴れやかな顔で開き直れるんだ……。
カンジは樹海の常連と聞いていたので顔パスだと思っていたが、先の検問所では『まさか、無制限許可証!?』と驚かれていたのだ。むしろ俺の方が驚きである。
樹海の区画は広大という事もあって、その気になればカンジでなくとも出入りは難しくないが、これでは無制限の入森許可証が宝の持ち腐れだ。
「普段から国に非協力的だから龍の一族が頼られないんだぞ。……まぁ、私欲で利用しようとする人間も多いらしいから仕方ない面はあるが」
近代兵器を持ち込めないという樹海の性質上、高い身体能力を持っている龍の一族の価値は極めて高い。実際に樹海関係の仕事を頼まれる事もあると聞いた。
ただ……樹海という場所は、文明の敵であると同時に『宝の山』でもある。
異常な再生力を持つ木、鉄よりも硬度の高い木材。外部に持ち出せば高値で取り引きされる植物が無数に存在している場所、それが樹海という場所だ。
だからこそ、私欲を満たす為に龍の一族を利用しようとする者が多かったらしいが、あの村の住人は下心を持つ者に対して敏感なところがある。
村に私欲で訪れる者は門前払いとなり、それを幾度となく繰り返した結果、龍の一族への依頼は激減してしまったという訳だ。……村の立地が悪いので気軽に訪問できないという事もあるのだろうが。
「まぁいい、とにかく先に進むぞ。樹海に長居をするつもりはないからな」
カンジとラスはピクニック感覚で騒いでいるが、俺たちは樹海へ遊びに来たわけではない。今も安否不明な遭難者が存在しているし、俺には新聞配達の仕事もあるので、手早く済ませて迅速に帰還しなければならないのだ。
「――そこで撮った写真が『タコ焼きピラミッドを撮るライゲン』という訳だ。村に戻ったらカンジにも見せてやろう」
俺たちは雑談しながら樹海を走っていた。
もちろん適当な気持ちで捜索活動をしているわけではない。和やかに話しながらも周囲の気配に気を配っているし、道中で襲ってきた野犬の群れを返り討ちにしたりもしている。……俺たちの話し声で野犬を呼び寄せた気がしないでもないが。
「なんだそれ、すげぇ面白そうじゃねぇか!」
ふふ、どうやら順調にカンジの好奇心を刺激しているようだ。
この調子で外の世界に興味を持たせていけば、ニートのカンジが都会に出てくる日も近いはずだろう。カンジの嫁探しを頼まれているライゲンも安心である。
「あのライゲンが…………ん?」
そんな中、唐突にカンジの言葉が止まった。訝しげな様子で周囲を見渡し、その場をぐるぐる回りながら視線をあちこちに飛ばしている。
それはまるで、目に映らないモノを探しているかのような様相だった。
「もしかして、匂いがしたのか?」
ここで言う匂いとは、樹海で行方不明になっている『捜索対象の匂い』の事だ。
そもそも当初の予定では俺一人で樹海を捜索するつもりだったが、この広大な樹海の中で当てもなく探し回るつもりはなかった。
事前に調査員が向かった場所を聞いていたし、それ以外にも対象を発見する手掛かりになる情報を聞いていた――それが『匂い』だ。
なんでも問題の調査員は強烈な体臭の持ち主らしく、かなり離れた場所からでも存在を知覚出来るという話だったのだ。一般社会で生きるには気の毒な体質だが、今回のようなケースでは見えない目印として役立つという訳だ。
「おっ、こっちから匂うぞっ!」
匂いの発生源を特定したのか、カンジは獲物を発見した獣のように走り出した。
同行者への配慮など欠片も無い爆発的な速度。これは俺の追走を信じているというより、純粋に標的の事しか見えていないのだろう。
このフリーダムな性質では研究機関から護衛を頼まれる機会があっても『途中で居なくなったぞ!』と単身で帰還してしまう可能性が高いはずだ。それはさながら『勝手に壊れた!』と主張するモンスタークレーマーの如くである。
「カァーッ、この雑多な樹海でよく匂いなんて分かるもんだな」
羨望と嫉妬が混じったような感想を漏らすラス。どうやら鳥類として動物的な嗅覚を持つカンジに対抗心を抱いているようだ。
しかし、誰にでも向き不向きはある。
「カラスは嗅覚よりも視覚が優れているんだろう? そもそもラスには非常時の備えとして期待しているから気にするな」
通信機器の持ち込めない樹海では、空を飛べるラスの存在は極めて大きい。
道に迷った時には上空を飛んで居場所を確認出来るし、緊急時には生物的通信手段として大活躍が約束されているのだ。
ラスの存在価値を認めつつ首筋を撫でてやると「クァァッ」と、くすぐったそうな嬉しげな声が返ってきた。……ふふ、好戦的な樹海の獣と違って可愛いやつよ。
そしてカンジに追走していると、ようやく俺にも『匂い』が届いてきた。
「ふむ、なるほど……銀杏の匂いを強くしたような感じだろうか。苦手な人間には少し厳しいかも知れないが、それでも思っていたほどではないな」
この匂いは樹海の獣を遠ざけるらしいので調査員向きの特性ではあるが、その代償として単独行動せざるを得ないとも聞いている。
なにしろ人によっては近くに居るだけで意識を喪失するという話なのだ。
「国の調査機関が外部の人間に縋るだけはあらぁな。自分の手駒が嫌がったから相棒に話が回ってきたんだろうよ」
「……おそらくその通りだ。調査機関の人間と話した印象もそんな感じだった」
国の調査機関が抱えている調査員は少ないという話だが、それでも仲間の救出に一人も割けないとは考えにくいのだ。
この強烈な匂いのせいで周囲から避けられている事は想像に難くないだろう。
「だからこそ放っては置けない。不当な理由で見捨てられるなど許されない事だ」
今回の救助対象は樹海向けの特性を持つだけあって優秀な調査員と聞いた。
その辺りの事情も他の調査員から疎まれる要因になっているのだろうが、帰還予定日を過ぎているのに探しに行かないのは不人情に過ぎる。
これは是が非でも無事に救出しなくてはならないところだろう。
明日も夜に投稿予定。
次回、九八話〔厳然たる鍋奉行〕




