☆☆17
「うわぁあああっ!」
盛大に叫んだ僕に向かって、僕よりも大きな虫は胴から続く足を突き出してきた。
「レフィくん!」
ヘルトさんがヒュンッと剣を振り回す。その剣が空振りしたのがわかった。
それでもクラ―ケルは一度、迫っていた僕から離れて飛び上った。
捕食される一歩手前だった?
僕の脳みそは師匠に言わせればスカスカなんだから、美味しくないよ!
まだ心臓がバクバクいってる。
僕は助かったけど、クラ―ケルは邪魔されて怒ったのかもしれない。なんか、目の色が黄色から緑に変わった。嫌な予感しかしない。
標的が僕からヘルトさんになってしまったような?
ヘルトさんは剣を構えるけど、改めて見るとあの剣はちっともヘルトさんに合っていない。多分、重たいんだ。剣先が低い。あんなの振り回せないよ。
マズいな――。
ええと、僕が使える魔術で有効なのってなんだろう?
あんなの撃退できる技って?
こんがりとオムレツが作れる――火。
お茶が美味しく淹れられる――水。
そよそよと洗濯物が乾きやすい――風。
あああ、僕って戦闘向きじゃない! 家事の際にどれだけ有能だとしても!
で、でも、何かしないと。
僕は思いきって唱えた。
「தண்ணீர் பந்து」
現れた水球がクラーケルにドン、ドン、とぶつかる。火だと町中で火事になるから水にした。
破壊力はそれほどないかもしれないけど、当たったら痛い――とは思う。翅だって濡れたら飛びづらいし。
クラ―ケルは目の色を変えたまま降下し始めた。あ、弱ってきた?
ヘルトさんも剣を構え直し、踏み込む。短いかけ声を上げてクラ―ケルに斬りかかったヘルトさんだったけど、クラ―ケルはヘルトさんの剣を口で止めた。
え――口で? その途端、バリ、と音を立てて剣が折れた。
どんな歯してるんだよ? そもそも、歯とかあるの?
「ヘルトさん!」
僕はとっさに叫んで駆け出した。でも、クラ―ケルは体を旋回させてヘルトさんを庇おうとした僕ごと、ごつい胴で体当たりを食らわせたんだ。
二人して吹き飛んだ。痛いなんてもんじゃない。馬車に跳ねられたようなものだった。
体が浮いて、それから、建物の角に叩きつけられた。僕たちはバラバラに飛ばされて、痛みで身動きが取れなかった。
痛い――。
マズいな。多分、腕が折れてる。吐き気が込み上げるほどの痛さを始めて経験した。
でも、それよりも強い恐怖を感じたのは、倒れたまま動けないヘルトさんに向け、クラ―ケルが動き出したからだ。
「ヘルトさん、起きてっ!」
脳震盪を起こしてるのかもしれない。ぐったりして動かない。
「くそっ!」
僕は折れた腕を庇いながら、なんとかして立ち上がろうとした。激痛が走って気が遠くなるけど、僕は師匠からヘルトさんのことを頼まれたんだ。護らなくちゃ。
「தண்ணீர் பந்து」
唱える。
――でも、術は発動しない。
僕の手の平からは何も出ない。
魔力はまだ底を突いちゃいないんだ。
でも、精神状態が乱れすぎていて、自分の中で上手く術が組み上がらない。
「落ち着け!」
自分を怒鳴りつけても、体の震えが止まらない。
僕は凡才だから。伝説の賢者の弟子のくせに、本当はどうってことのないただの子供だから。
知ってるよ、そんなの。でも、今だけはそれじゃいけないんだ。
「தண்ணீர் பந்து」
出ない。なんで!
泣いてる場合じゃない。痛いけど、僕の腕より大事なのはヘルトさんの命だ。
神様、天国の父さん、母さん、今だけでいいからなんとかしてよ。助けてよ。
この先、二度と魔術なんて使えなくてもいいから、今だけは――。
できる気がしない。できない。
クラ―ケルがおもむろに、ヘルトさんに首を近づけていく。
「嫌だ!! 師匠! ごめんなさい、師匠! 助けてっ!!」
僕は声の限りを尽くして叫んだ。
どうか、この声が師匠に届いて!
お願いだから!
僕の声は、近くにいた人の背中を押した。鋭い煌めきが、真冬の空に上がる三日月みたいに見えたんだ。白銀の剣が、クラ―ケルの胴を二分した。速い――。
クラ―ケルの体液が飛び散り、体が崩れた。その後でハッ、ハッ、と息遣いが聞こえる。
――師匠、じゃない。
でも、これは。
背が高く、引き締まった体躯。重たい剣を物ともせず高速で振る。
その人は振り返った。ああ、やっぱり――。
「ラ、ライニールさん……」
なんだかほっとして、涙が止まらなかった。
ライニールさんはいつもの柔和な顔からはかけ離れた厳しい顔をしていたし、騎士の制服も着ていないけど、それでも間違いない。ライニールさんだ。
「やっぱりレフィか。リュークは?」
ライニールさんも相当疲れてるように見えた。ここに駆けつけて救助活動をしていたのかな。
「師匠はクラ―ケルを退治して回ってます」
そうか、とだけ答えて、ライニールさんは倒れているヘルトさんの横に膝を突いた。助け起こそうとして、この時になってようやく、ライニールさんはその人がヘルトさんだって気づいたみたいだった。
「ヘルト?」
いつもと恰好は違うけど、自分の副官なんだから気づくでしょ。遅いよ。
ライニールさんは剣を鞘に戻すと、ヘルトさんを横抱きに抱え上げた。気がついたらヘルトさんに教えてあげようかどうしようかな。喜ぶかもしれないけど、未練が残るだけかなぁ。
抱き上げたヘルトさんを気遣うライニールさんは、なんというのか怒っているような険しい表情に見えた。そんな顔するんだなってくらい。
ここで『お見合いはどうだったんですか?』なんてさすがに訊けないけど。
「レフィ、君は大丈夫か?」
僕のことも気にしてくれた。腕が痛すぎて発狂しそうだけど、ちょっとそれを言える気がしない。僕のことは後回しだ。僕は辛抱強い子だから。まだ頑張れる。
「はい、平気です」
涙を拭いて言いきった。よく言った、僕。痛いけど。
「ここは危険だ。こっちについておいで」
「はい!」
痛いけど。我慢、我慢――。




