02_『ゆとり世代』と呼ばれた人々が、そろそろ『老害』と呼ばれかねない時代に
前項【01】に含まれる内容なのだが、むしろこっちが長くなったので分割した。
肯定が善、否定が悪に伴って、『肯定するヤツ偉い/否定するヤツクズ』みたいな風潮がないか?
自分はこれが嫌いだ。
本当に褒めるヤツが偉いなら、八方美人や媚を売る人間が評価されているぞ。現実には一部の権力者に気に入られて評価されても、他大多数からは嫌われる場合が圧倒的だぞ。
これは個人の感情論だからさておいても、心理学や教育学の分野では、ざっと5年から10年は遅れた考えと言える。払拭されたわけではないが、現在では否定されつつある。
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『褒めて伸ばす』教育がいつぐらいから定着したか、調べてみても判然としない。
ただ、いわゆる『ゆとり教育』の一部に含まれて見られると言っていいだろう。
なので、偏見込みではあるが、『褒めるヤツ偉い/批判するヤツクズ』という意見が、あまりよくない意味での、実にゆとり世代的思考だと感じてしまう。
当事者だった方々には今さらだが、また齟齬があってはならないので、専門家から怒られそうな簡単な説明をしておこう。いま現在、学生である人はわからないだろうし。
いろいろ悪名高い『ゆとり世代』は、ある年代で学校教育を受けた人々のことを呼ぶ。
それまでの教育は詰め込み型、膨大な知識をとにかく暗記させる形が一般的だった。
だがそれでは、テストが終われば全部忘れ、「なぜそうなるのか?」という途中経過を理解していない、口さがなく言えば頭デッカチな学生が増えた。受験地獄、偏差値重視、学歴偏重といった弊害、更には青少年犯罪の増加までも結び付けられ、社会問題化した。
それではならないと、指導内容を大幅に精選し、授業時間を減らし、個性を重視し、時間的にも精神的にもゆとりある学校を作ることを目的とした学習指導要領に改訂した。
この改訂学習指導要領に沿った教育が、『ゆとり教育』と呼ばれるものだ。
それまで多くの公立校の場合、土曜日はいわゆる半ドン、半日授業を行っていたが、この年代で段階的に学校週5日制へと移行している。
総合学習 (総合的な学習の時間)という科目が作られたのも、この時代になる。
年代は諸説あるが、大別してふたつ。小中高時代が2002年~2010年か、1980年~2010年に被っている世代が、そのゆとり教育を受けた『ゆとり世代』と呼ばれる。
厳密性はともかく単純に考えると2018年現在、前者は15歳~31歳。後者は15歳~56歳。
前者はまだしも後者で考えると、このサイトの利用者の大半は、ゆとり世代に当たるだろう。自分もバッチリ入っている。
このゆとり教育、メリットもあったがデメリットもある。
特に言われるのが、学力低下と競争社会の否定だ。
ゆとり世代が社会に出て、散々「使えねー」などと叩かれまくったので、ゆとり教育が見直されるようになった。
いや、もちろんそれだけが理由ではないけど。
とはいえ一因であるとは言えるだろう。ゆとり世代の一人として反論はあるが、「マニュアル人間」とか「根性がない」とか「言い訳が多い」とか、傾向としてあるだろうと、ある程度の悪評は認めざるをえない。
とにかくメリット以上にデメリットが問題視され、2011年以降、今度は『脱ゆとり教育』と呼ばれるものが始まった。
ゆとり教育も脱ゆとり教育も、学習指導要項、学校の授業内容や授業数の規定改定なので、褒めて伸ばす教育との直接的な関係はない。
だが、完全に関係ないとも断言はできない。
ナンバーワンよりオンリーワンと歌われた。かけっこでみんな一緒にゴールイン(都市伝説?)、劇では主人公が何人もいる(都市伝説?)なんて言われた。子供に激甘で独善的な迷惑を撒き散らすモンスターペアレントが流行語にも問題にもなった。
ゆとり教育の弊害として挙げられる、競争社会の不適合性と、褒めて伸ばす教育との関連を結びつけてしまう。
これも確証ある数字として出せないが、褒めて伸ばす教育が疑問視されるようになったのも、脱ゆとり教育の時期と一致するのもある。
今の時代、子供たち自身に考えさせ、安易に正解・間違いを出すのではなく考え続ける力を伸ばすのが大事、という方針にシフトしつつある。
ネガティブな言葉で人が伸びた時代は昭和以前の遙か昔だが、平成も終わろうとしている昨今、ポジティブな言葉をかければいいという時代でもないのだ。
再度ゆとり教育方面にシフトしない限り、この流れは確定している。
かつては許されていた体罰やスパルタ教育が否定されたように、ただ単に褒めればいいという考え方も、そのうち時代遅れとされて廃れるだろう。
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社会の動きから、『肯定するヤツ偉い/否定するヤツクズ』を否定する理由は、もうひとつある。
2013年、ダイヤモンド社から出版された、哲学者・岸見一郎氏とライター・古賀史健氏の著『嫌われる勇気 -自己啓発の源流「アドラー」の教え-』が、この手の書籍としては異例のヒットを記録した。
これを期に、と言っていいだろう。アドラー心理学というものが注目されるようになった。
心理学や哲学に興味ない人でも、フロイトとユングの名前くらいは、聞いたことあるだろう。アルフレッド・アドラーという人物もそのふたりに並ぶ、その分野での巨匠なのだが、日本での知名度はほぼ無名に近かった。
アドラー心理学は、ハッキリ言って難しい。自己啓発のつもりで素人が生兵法で実践しようとしたら、できないだけならまだしも、痛い目見る可能性が高い。
かなり人を選ぶから、これまで無名なのもある意味当然だったが、100年以上も前の理屈が現代日本で必要とされている。
いろいろと特色はあるが、簡単な解説でよく挙げられるアドラー心理学の特徴は、褒める行為も叱る行為も否定していることだ。
な? この時点で意味不明だろ?
褒めるのダメ。叱るのダメ。じゃぁどうしろと?
そう思うだろ?
でも「どうしろと?」は、ここでの本題じゃないのでスルーする。興味がある人は、それ系の本でも紐解いて欲しい。
ここでの要点は、わからない人が多いだろう、叱るのも褒めるのもダメという理屈部分だ。
理由はふたつある。
理由その1。
褒めるのも叱るのも、上位者が下位者に行う行為だから。
親子、上司部下、先輩後輩、師弟、ペットと飼い主。そういった関係の中で、どちらが叱る側で、どちらが褒める側か、考えてみてほしい。
よほど特殊でなければ、親・上司・先輩・先生・飼い主といった上位とされる者が叱り、褒める場面を想像するはずだ。
誰の目にも一目瞭然、双方納得の明確な上下関係と、なにより信頼関係にあるなら、まだ許される。
だけど、上下関係が不明確、上下を明確にしてはいけない間柄で、信頼関係もなくそれをやってしまうと、支配権を奪うためのマウンティングになる。
年長者というだけで敬われていた昔と違い、昨今やかましくて失礼な近所のガキんちょを怒鳴りつけようものなら、変質者か老害扱いされるだろ?
昔は男尊女卑、今は男女平等。男性が女性の上位に立とうとすれば、セクシャル・ハラスメントとして問題になるだろ?
これは時代の変化で、人間関係の中で上下関係が希薄になってるからだ。
それがいいか悪いかは結局、当人同士の問題だから一概には言えないが、現代日本では平等が重視されている。
オフィシャルの場ではむしろ重要視されるが、プライベートの場で上下関係を作ろうとする行為は、前時代的とすら言える場面が多くなりつつある。
理由その2。
他人をコントロールするための手段だから。
飴と鞭は使いよう、なんて言葉がある。
飴は報酬、褒める行為。
鞭は罰則、叱る行為。
言葉自体、あの鉄血宰相ビスマルクの政策が元、という説もある。効果がないわけはない。
甲子園常連の名門校野球部(花園でラグビー、国立でサッカーでもいいけど)の練習は厳しい。野球でエラーしたら腕立て伏せ。監督に歯向かえばグラウンドを走らされる。
でも選手たちは監督についていく。彼が言うことに間違いはない。彼は確実にチームに勝利をもたらせてくれる。
それに厳しいだけで理不尽ではない。指示どおりのプレイができれば褒めてくれる。チームが勝てば焼き肉おごってくれる。
そんな人物に対して、歓迎する趣もあるだろうが、同時に悪評もつくだろう。
選手に罰を与える監督は人間のクズだ!
そんなものは不要だ!
褒めてやれば選手は応じてくれる!
そんなことを思ったあなた、実に優秀。目の付け所が違う。
鞭を排し飴のみを与えるのは、効果的なのだよ。
他人をコントロールするのにな?
鞭を使わないのに飴を与えるなんて優しい!
それが人道的に正しいやり方だ!
そんなことを思ったあなた、実に浅はか。目の付け所が違う。
他人をコントロールしようとする連中はクズじゃないと?
従えば飴がもらえて、従わなければ飴はなし――つまり『鞭』という形がなくなっただけで、『罰』は存在し続けている。
だから報酬を求めて自発的に頑張るようになるだけの話だ。しかも罰が一見ないように思うから、モチベーションは高い。
叱らないし、ご飯くれるから、ご主人様大好き!
尻尾ブンブン忠実なワンちゃんになるよ!
なんでも言って!
ご主人様に褒めてもらいたいから、いくらでも頑張っちゃうよ!
そんな、このサイトのどこかで見た気がする奴隷美少女みたいな思考で、自主的にコントロールされてくれるのだ。
誰かをこんな心理状態にする行為を、一般的に『洗脳』と呼ぶ。
アドラー心理学では真っ向否定されているが、現実にこれが悪いかというと異なる。
アメリカの大学バスケットボールリーグで、20世紀最高のスポーツ指導者と言われた、ジョン・ウッデンという人物のコーチング手法なのだ。現在でもこの手法は、様々な指導者が取り入れている。
スポーツチームの指導者であれば、勝つという目的のために、選手をコントロールし、チームを支配する必要がある。そういう意味では効果的であろうことは予想できるし、歓迎されるのも評価されるのも理解できる。
スポーツチームの場合はな?
バスケチームの人数と比べものにならない相手に、勝負の場という限られた場面以外で、勝利以外にもそれぞれの思惑があって、選手と監督みたいな信頼関係も上下関係もない間柄で、これが許されるかというと話は変わる。
ついでに、飴と鞭のビスマルク侯爵は19世紀の人、飴となしのジョン・ウッデンは20世紀の人、そして今現在は21世紀という事実も付け加えておく。
これ言うと、アドラーは19~20世紀の人なんだが。
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歴史を紐解けば、抑圧など珍しくない。厳とした身分制度が存在し、人種差別も当たり前。性的マイノリティなど認められないどころか罪になっていた。
だから個人主義、自由主義、許容や寛容に、先進的という印象を受ける。
差別などしない、個人の自由を尊重した発言は、現代的で善きものと思える。
だがその程度ならば既に古い思考なのだと、注意しておかないとならない。
立っている場所は表面で、先端はもっと深いところにある。
あと独善的というのは、世間知らずの若者の特徴であると同時に、嫌われるご老人方の特徴であることも付け加えておく。




