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黒い霧が地を這い、空気そのものが腐敗していくような気配が漂っていた。月光に包まれた湖畔。そこに、二つの存在が相対し、佇む。
一つは、人ならざるもの。宿主を失い、なおもこの世に縛り付けられた「魔眼」。瞳孔はゆらぎ、見据えたものの“終わり”を映す神の視線と呼ばれるモノ。
死の瞬間。それをその奥底に封じ込める異形の器。
「シをワレに」
「オマエのシ。それをミセろ」
声ではなかった。心を直接削ぐような囁き。
アレンは答えない。ただ、己の影を揺らし、淡々と歩を進めるのみ。
闇が蠢く。
彼の背から、カタチを為した闇が伸び出す。
それは斬撃ではなく、拘束でもなく――ただ「抱擁」。哀れなものを抱きとめ、救済の名の下に飲み込むための闇。
それを、魔眼は嘲笑う。
「ワレが映すのは“滅び”。魂が砕ける瞬間。ソレをワレはミる」
瞬間、アレンの周囲の時間が軋んだ。
彼の視界。
そこに己が死を選んだ光景が投げ込まれる。
焼け焦げ、血に沈み、闇にすら見放された骸の姿。それが鮮明に。
〜〜〜
手に握った短剣。
それをもって、アレンは自らの首に剣を突き立てた。
救済の闇。
それに抱擁されず、"ただ"の勇者としてあの光景を見せられたのならーー
虚な瞳。
それをもっと虚空を見つめ、己の血溜まりの中で死を選ぶ己の姿。
それを嘲笑い、村の者たちは小屋に火を放つ。
アレンの亡骸。
それすらも残さぬようにーー。
〜〜〜
しかし、アレンは眉一つ動かさない。
【救済】
【己の死の瞬間。それに囚われることから】
その静かな瞳の奥にあるのは、恐怖ではなく冷ややかな決意。
「死を視る眼」
「なら、救いを視る闇。それをもって」
「オマエを救済してやる」
無機質な声の響き。
呼応し、闇が奔る。
影の奔流が湖畔を満たし、空間すら呑み込む。
魔眼が放つ死の光景。アレンの闇がもたらす救済。
その二つが衝突し、空間は悲鳴をあげる。
まるで、滅びと救済――二つの相対する概念そのものが相食むかのように。
地が軋む。
空間全体が、二つの力――“死”と“救済”――の拮抗に耐えきれず、ひび割れを走らせていく。
魔眼が震え、無数の幻影を撒き散らす。
アレンの身体が何度も死に晒される。
首を刎ねられ、胸を貫かれ、影に呑まれ、大切な人を失い、無惨に散る未来。
それはただの幻覚ではない。未来の断片、可能性の死。それらが凝縮された“呪い”だった。
「ミよ。オマエが救おうと伸ばした手。それが、どれほどの骸を積み上げるか」
アレンの視界。そこに、無数の人影が崩れ落ちていく。
その手を取ろうと伸ばした闇が、かえって命を奪う幻影。まるで「救済」が「死」と同義であると突きつけられるかのように。
だが、彼の唇がわずかに動いた。
「それでも」
低い声。
その瞬間、アレンの背から放たれた闇は、幻影すら抱きとめる。
骸の群れ、絶望の光景をも、闇が穏やかに覆い隠していく。
「滅びに安らぎを。終焉に意味を。それが、俺の救済だ」
魔眼がわずかに震える。
「救いなど欺瞞。シは絶対。抗えぬ定め」
アレンの影が死を這い、魔眼に触れようと伸びていく。
「俺が抗おう。お前の“絶対”を、闇で抱き潰す」
静寂を突き破る轟音。
闇と死の力が衝突し、木々が砕け、葉が一斉に崩れ落ちる。
砕け散った葉の破片。それが月光に舞い、白き血のように光を反射した。
その渦中で、アレンはただ一人、影の抱擁を広げ続ける。
救済か、滅びか。
二つの概念は、今まさにこの廃墟で決着を迎えようとしていた。
砕け散った葉の隙間。
そこから、月明かりが流れ込む。
光は細く脆い。しかし、闇と死の激突を照らすには十分だった。
魔眼の呪力が増す。
「抗えぬ定めに抗う。ならば、その愚かしさを永遠に視せてやろう」
アレンの頭蓋を貫くかのように、無数の“死の未来”が押し寄せる。
その全てが絶望。
彼が救おうとする者は、例外なく死に至り、闇に沈む。救済の名が、死の同義語に堕ちる。そんな予言ばかり。
膝が軋む。
影の腕がほどけ、飲み込もうとした闇が霧散していく。
魔眼の声が勝ち誇る。
「見たか。これがオマエの宿命だ。救済など存在せぬ。お前はただ“死を先延ばしする影”にすぎぬ」
だが、その時。
アレンは、静かに目を閉じた。
そして、息を吐く。
「俺は、知っている」
低い声が、魔眼の響きを押し返す。
「救えぬ命があることを。闇に抱けぬ魂があることを。だが、それでも。伸ばした腕を、俺は決して否定しない」
救えなかった命。
理不尽に散らされた命。
そして、闇に縋るしか道がなかった魂たち。
瞬間、彼の背から迸る闇が変質した。
ただの影ではない。それは 「夜空」 のごとき深淵。
漆黒の中に、微かに光が瞬いている。まるで夜空に輝く星々のように。
救済の闇。それは、滅びを覆うだけでなく――“死者の祈り”を抱き取り、闇へと還す力。
魔眼が震える。
アレンの瞳に、光が宿った。
それは優しくも冷酷な輝き。
死すらも抱擁し、意味を与える“闇の救済者”の目。
「絶対の死? いいや。お前の視る死に、俺は“安らぎ”を刻む」
影はもはや触手でも奔流でもなく、夜空そのもの。
その星々に包まれた者は、死を恐れることなく眠りにつく。
救済は欺瞞ではない。
死の中にも、なお意味を与える闇が存在するのだと、力そのものが証明していた。
魔眼が悲鳴を上げる。
「シ。死は畏れるべきモノ」
「決して。ケッして。やすらぎなど」
「あるはずが」
夜空の如き闇が迫る。
そして、アレンは魔眼に告げた。
たった一言。
「救済を視ろ」
「安らぎの死。それをミろ」
と。
無数の星の瞬きの如き光。それを孕んだ闇。
それが魔眼を抱き潰し、全てをヤミへと包み込んでいったのであった。




