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アレンの力の行使。それにより、ゼレグの"存在"は世界から消えていく。救済の闇。その深淵の闇に包み込まれるようにして。
だが、ゼレグはなぜか嗤っていた。
「ヤミ。ヤミに包み込まれる」
「それはこんなにも冷たいモノだったのか」
「しかし、これもまた」
ゼレグの脳裏。
そこに迸る、自らが見てきた死の瞬間。
涙を流していた者。命乞いをした者。無実だと訴えた者。最後まで"生きる"ということを諦めなかった者。
不意にゼルグの瞳が揺らぐ。
そして額に手をあて、ゼルグは微かに思い出す。
"「なぜ。なぜですか? 何故、毎日。首を刎ねなければならないのですか? それほどまでに……この国には溢れかえっているのですか?」"
"「死をもって償わなければならない罪人が」"
走馬灯のように流れる、かつての己の姿。
しかし、ゼレグはそれをすぐに振り払う。
「今更。どうでもいい」
「そのおかげで。その、おかげで」
「オレはーー」
「愉しむことができたのだから」
アレンは見つめ続ける。
独り呟き、その存在を消失させようとしている一人の男の姿。それを、表情を変えずに。
そして流れこむ、真相。
闇を通じ、アレンは知る。
ゼレグの真相。仕組まれた闇を。
※※※
地下に広がる石造りの祭壇。燭台の炎がゆらめき、古の符が刻まれた壁を赤く照らしていた。
黒衣の男たちが輪を描き、その中央には意識を消失させられた一人の男が横たわっている。名はゼレグ。そしてその眼に、液状の黒が流し込まれる。
「処刑人に人の心など不要。ただ黙し、首を刎ねておればよかったものを」
「黙って処刑を続ければ、実験台にならずに済んだのだがな」
低く呟いたのは、儀式を主導する異端の学僧。
黒は蠢き、瞳の形を取り、やがて光を宿す。だがそれは視るための眼ではなかった。見る者の心を穿ち、存在そのものを捕らえる“魔の眼”。
「神々の視線の研究。死の瞬間。それを見ることができる眼」
「人の魂を捨てた眼。それこそが闇に対する布石になるうる」
そして学僧は、わずかに口元を歪める。
「殻はいつか砕ける。だが眼は残る。永遠に」
蝋燭の炎が吹き消され、地下に沈黙が落ちた。残されたのは、闇の中でぼうっと脈打つひとつの魔眼――人の手によって生まれた、己の意志なき怪物だった。
※※※
そして、アレンは見た。
夜霧が漂う湖畔。
ゼレグという名の殻。
それを【ぜレグの存在の消失】をもって無くし、宙に浮かぶは漆黒の中に赤が滲む二つの眼。
殻を失ったその存在は、肉も声もなく、ただ「眼」であることだけを主張している。その虚ろな輝きは、かつての人間の温もりを一切欠き、冷たく、凍てつくように澄んでいた。
瞳孔がひとつ、ゆらりと開く。周囲の霧が吸い寄せられ、アレンの足元の影がざわめく。声はない。だが、確かに「見ている」。
アレンの表情は変わらない。
【救済】
【魔眼に見られることから】
魔眼は震えることなく、ただ存在している。だがその凝視は、心臓を穿ち、アレンの魂の奥底に囁く。
死をミせろ。我に死をみセろ。と。
常人ならば、その視線だけで死を選ぶだろう魔眼の視線。
だが、アレンには通じない。
【救済】
その闇の抱擁がある限り。
アレンの呼吸は浅い。
それでも口は開かない。声で抗うのではなく、ただ沈黙のまま立ち尽くす。
その眼差しに、かすかな拒絶と、揺らがぬ覚悟だけを宿して。
一瞬、風が凪いだ。湖面の影が蠢き、降るはずのない雨粒のひとつがゆっくりと落ちる。
その刹那――アレンと魔眼。ふたつの存在が、音なき衝突を始めた。
闇を切り裂くのは言葉ではなく、救済と魔眼。言葉なき沈黙の対話。
そして、静謐な湖畔の下。
それを舞台に二つの存在はぶつかり合うのであった。




