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ほのかに月光に照らされる、湖畔。
蒼白な月光が湖面を覆い、まるで死者の吐息のように冷ややかな光が揺れていた。水面は鏡のごとく澄みながらも、その奥底には得体の知れぬ闇が蠢く。
湖畔の木々は枝を黒々と伸ばし、枯れた指のように空を掻きむしる。風はなく、しかし囁き声のような音が耳をかすめるのは、風ではなく過去に沈んだ者たちの呻きなのだろう。
月明かりは美しくも冷酷で、湖面に映る己の影すら、異形の怪物のように歪んで見えた。ここでは誰も祈らず、誰も眠らない。夜はただ永遠に深まり、月は湖を見下ろす裁きの目のように輝き続ける。
そこに呻き声がこだました。
怯え震え、その場で身動きが取れない男。
男は村から逃れた者。しかし、ゼルグの【眼】からは逃れることはできなかった。
「見える。ミエるのだ。オレが探し求めるモノ。ミたい死の瞬間。それが、この眼には」
ゼルグの瞳。
そこに蠢く闇。
男の首。それに、冷き血鯖の滲む刃をつきつけ、ゼルグは声を響かせる。
「オレはあの村の生き残りを探し求めていた。そして、お前を見つけた。オマエの死の瞬間。見させてもらうぞ」
「村の者たちと同じように、俺がオマエを救ってやる」
「生きること。それから解放されたのなら、なにも怯えることはない」
彼の目は血走り、呼吸は獣のように荒く、口元は笑みとも痙攣ともつかぬ歪みによじれていた。
「これでお前も、生から解き放たれる」
唸る声とともに、その剣が振り下ろされようとしたーーその瞬間。
【救済】
【剣がオマエに握られることから】
湖畔を覆う闇が、不自然に揺らめく。
夜の影が膨張し、照らす月光を呑み込むように周囲に広がった。
刹那。
ゼルグの剣。
それが、闇に包まれ、ゼルグの手から地へと落ちる。
まるで剣自らが握られることを忌避するかのように。
呼応し、ゼルグは己の後ろを仰ぎ見る。
そこに立っていた。黒衣をまとう、寡黙な影ーーアレン。その存在が、月にその身を照らしどこか異質な闇を纏いながら。
アレンの周囲。そこには、闇が意思を持つかのように蠢く。
【救済】
【怯えから】
村人を包む、恐怖。
それを救済は、音もなく断ち切る。
倣い、男はその場から逃げ去っていく。
恐れという鎖。それから解放された獣のように。
ゼルグの笑み。
それが消え、虚な瞳がゆっくりとアレンを捉える。
「何モノだ?」
低く、怒りを押し殺したような声が夜に溶ける。
アレンは答えない。ただ静かに歩を進め、闇をまとった瞳でゼルグを見据えた。
ゼルグはアレンを見る。
そして、呟いた。
「俺を討ちにきた勇者」
「いや、違う……その闇。オレと同じ、堕ちたモノか」
怒号でも脅迫でもなく、ただ冷たい声。
闇がざわめく。そして、ゼルグの眼が更に黒く染まり始める。
ゼレグの黒き視線。
それは、アレンに向けられていた。
しかし、その眼差しの奥は己の業を見つめているかのようだった。
そして、ゼルグは独り声を響かせる。
「王都の法の下で、罪人を斬り捨てる。オレはそれだけの歯車」
低く擦れた声。それに共鳴するように湖面がざわめく。ゼルグの目が赤黒く光を帯び、血涙のような脈動が浮かび上がる。
「斬っても、斬っても、終わりはしなかった。罪を犯した者だけじゃない。王が気に食わぬ者。貴族の機嫌を損ねた者。ただ、巡りが悪かっただけの者。俺は次々にソノ者たちの首をキり落とした」
ゼルグは嗤う。
だがその嗤いは、己の正気を保つためのものに過ぎない。
「ある時だ。俺は見たんだ」
見開かれる、ゼルグの両の眼。
「斬られゆく者たちの最期。あれはただの死ではなかった。苦悶、恐怖、憎悪、安堵。ありとあらゆる感情が凝縮し……ひとつの名状しがたきモノになって散っていく」
アレンは黙して聞いていた。闇がゼレグの背後で渦巻く。
「最初は幻覚だと思ったさ。だが違う。毎度、俺の眼にだけ映るんだ」
ゼルグを手に力を込め、更に続けた。
「それからだ。俺の眼は閉じることを知らなくなった。瞼を閉じても、見えてしまうのだ。人の死。その瞬間が。生を削り。死を映し出し、俺に囁くんのだ。もっと"ミろ"とな」
「そしてオレは思った。このオレが。死のカタチをミることができるオレがソレを見届けること。それが、救いなのだと」
目が爛々と輝き、異様な力を放つ。
だが、アレンの纏う闇はその深淵を失わない。
そして、アレンは力を行使した。
【救済】
【オマエのような存在。それが、この世界に存在することから】




