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〜〜〜
「い、いや。助け」
命乞いの声。
それすらも、男にとっては救いを求める声に聞こえた。
血の気を失せた女の顔。
それを見下ろし、男は血で錆びた剣を振り上げる。
「救ってやる」
「生きる。ということから」
響く悲鳴と、飛び散る鮮血。
足元に転がった女の亡骸。
それを見下ろす男の表情。
それは、嗤っていた。
〜〜〜
王都の片隅、黒鉄の刃を振るう影があった。
その男。かつて「王都の処刑人」と呼ばれた者は、罪人を裁くという名目の下で、幾百もの首を刎ね落とした。
だがその大半は、真に罪を犯した者ではなかった。権力に逆らった者、冤罪を着せられた者、時には無垢なる農民すら。
命乞いの声は、彼の耳に未だ焼き付いている。
最初は迷い、吐き、夜に泣いた。
だが王の命令に逆らえば、自らが断頭台に立たされる。そうして刃を振るうたびに、心は削れ、彼はやがて“痛みを感じぬ怪物”へと変わり果てていった。
ある夜。彼はふと「救い」という言葉を幻聴した。
――生きることこそ、罰。死こそが、救済。
その瞬間から彼は“王の犬”ではなくなった。
処刑人は自らの意思で鎖を断ち切り、闇に身を沈めた。
彼の訪れる村は、夜明け前の静寂に沈む。
戸を叩く音もなく、影は忍び寄る。
そして、子を抱く母も、畑を耕す父も、まだ名も持たぬ赤子すら、首筋へ冷たき鉄の口づけを受ける。
だがその瞳は憎悪ではなく、奇妙な慈悲に満ちている。
「苦しまずに済む。王都の理不尽に怯えずに済む。お前たちの魂は、俺が救ってやる」
血に濡れた刃を掲げ、かつての処刑人は微笑む。
それは正気を失った笑みか、それとも歪んだ祈りか。
村々にはただ、朝靄と共に屍が転がり、血の匂いが漂うのみ。
その男の名は、ゼルグ。
かつて、王都の処刑人と呼ばれた男だった。
〜〜〜
王都、漆黒の石壁に囲まれる間。
燭台の火が揺らぎ、長卓を囲む影が、まるで亡霊のように座していた。
卓上には、血で汚れた羊皮紙が置かれている。
それは南の村から届いた報告書――「住人三十余名、皆殺し。生存者なし。犯人は元処刑人ゼルグ」
重苦しい沈黙を破ったのは、老いた宰相だった。
「見逃せぬな。奴は王都の刃として、人の血を浴びすぎた。今や闇を帯び、民を屠る化け物に成り果てた」
軍務卿が拳を打ち鳴らす。
「放置すれば、恐怖は王都にまで及ぶ。民草が“王が処刑人を生み出した”と囁けば、玉座の権威が揺らぐぞ!」
一人の貴族が冷笑した。
「ならば、奴を討てばよい。だが、誰が行く?かつて王のために百を斬り、千を殺めた処刑人だ。ただの人を殺めたこともない兵どもを徒に送れば、屍を増やすだけになるだろう」
会議室に不吉な沈黙が落ちる。
誰も、彼を「容易に討てる」とは言えなかった。
むしろ彼こそが、王都の裏を支えた“必要悪”だったことを皆が知っている。
やがて、奥に座る者は口を開いた。
「影を狩るには、光を以てせねばならぬ。この場に王が居られたら、そう仰るでしょう」
その言葉に、空気がざわめく。
宰相が深く頷き、冷徹に告げた。
「では、王にそう進言を。王はただでさえ、闇に敏感になっておられる。それが、ご自身が蒔いた種であるにも関わらず」
燭火が揺れ、壁に映る影が長く伸びる。
そして権力者たちは、その顔に笑みを浮かべ、頷き合う。
そして、更に声が響く。
「して。あの者たちはどうなった?」
「あの者たち?」
「アレンーー聖女様が待ち焦がれる勇者が一人。その者が生まれた村の」
「あぁ。あの者たちか」
「あの者たちはーー」
※※※
「あ、アレンを勇者として城に連れてくる」
「……っ」
「そうだ。そして、アレン殿自らの口で、お主らと村を赦すという言葉が王と聖女様に発せられた時。その時をもって、死罪と村の根絶やしーーその二つの罪からの恩赦は果たされる」
響く、看守の冷酷な言葉。
それに、鉄格子を握るゴウメイとマリアは、その顔から生気を失わせ、力無くその場に崩れ落ちたのであった。
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