21
※※※
夜は深く、冷たい霧が村を覆っていた。
人々の家々から漏れる蝋燭の光は霧の中で揺れ、まるで生き物のように震えている。
風のない夜に、微かなざわめきが混ざる。
それはまるで、ナニかの視線が、じっとこちらを見つめているかのようだった。
森の奥。朽ちた城壁の残骸に黒い影が蠢いた。
長い眠りの中で忘れ去られたもの。かつて【救済の勇者】に敗れたモノ。
その気配は、空気を重くし濁らせる。
少年は夢と現の狭間で、何かに呼ばれる声を聞いた。
「おいで」
その甘美な声に従い、彼は森の方へと足を踏み入れる。
葉のざわめきも、獣の匂いも、何もかもが、まるで彼を拒むように鮮明に迫った。
だが、少年は止まらない。
胸の奥で知らぬ力が疼き、闇の奥に潜む何かが、彼を必要としている。
そんな確信があったからだ。
森の深奥に差し掛かった瞬間、冷たい風が吹き抜け、世界の色が失われたかのように暗く沈む。
木々の影が長く伸び、黒い形が地面に這い回る。
その中心で、闇はゆっくりと目を開けた。
古の呪い、忘れられた怒り、渇望――それらすべてが渦巻き、世界を蝕もうとしていた。
少年の目の前で、闇が初めてその姿を形作る。
それは美しく、恐ろしく、そして、魅力的だった。
氷のように白銀に輝く髪が、月光を受けて波のように揺れる。
まるで雪原に吹き渡る風が形を持ったかのようなその髪は、どこか神秘的で、眩さと冷たさを同時に宿していた。瞳は深い漆黒。しかし光を受けると鋭い銀色の閃きを見せ、見る者の心を掴んでは離さない。
その唇は淡く紅く、微かに笑みを浮かべるだけで、周囲の空気までも凍りつかせるかのような威圧感を漂わせる。
長い指先。
そこには、夜闇の色を帯びた鋭い爪。
彼女の肢体を包む漆黒の靄。
それは体を闇と同化させ、歩むたびにわずかに闇をゆらめかせる。まるで闇そのものが彼女の周囲で波打つように。
彼女が静かにそこに佇むだけで、闇の血を色濃く感じさせるその存在感。
それは、見るモノ全てに畏怖と尊敬の念を同時に抱かせる。
彼女が一歩踏み出すと、雪の上に残る足跡すら氷のように光り、まるで世界そのものが彼女の存在を祝福し、あるいは警告しているかのようだった。
触れればすべてを奪われることを、彼はまだ知らない。
闇が目を覚ましたその瞬間。
森の奥の空気は重く、湿った土の匂いが異様に濃くなった。
木々の葉は黒く影を落とし、枝はまるで生き物のようにうねる。小鳥たちは沈黙し、獣たちの視線も消えた。
それは自然が、息を止めたかのよう。
少年は、胸の奥の鼓動を感じた。
それは恐怖ではなく、どこか懐かしい、しかし危うい感覚だった。
闇の力は、彼の存在を知り、彼の心に触れようとしていた。
「行くな」――理性が囁く。
だが、少年の意志はそれを押し切る。
胸の奥で疼くものが、確かな欲望として形を取り始めていた。
少年の手が、ソレに触れる。
刹那。
少年は、闇に飲み込まれた。
甘美な闇に。抱擁されるようにして。
※※※
少年が消えて、村は変わる。
家々からもれた灯は、いつもより弱々しく、揺れていた。その光の中に、人々のざわめきが混じる。
奇妙な夢を見た者、胸に不安を抱く者――村全体が、何かにざわめいていた。
闇は、じわじわとその影響を広げていく。
井戸の水面は夜毎に黒ずみ、井戸端に立つ者の影は、不自然に長く歪む。
軒先に吊るされた鈴の音は、夜になると途切れ途切れにしか響かず、微かに耳を裂くような不協和音を奏でる。
村の犬は遠吠えを止めず、子供たちは夜に眠れず、親たちは胸騒ぎに苛まれた。
闇は、確かに世界を蝕まんとする。
そのモノの歩みは、闇を纏い、少しずつ世界を喰らっていく。
少しずつ。少しずつ。
まるで、それを愉しむかのように。
【救済の勇者】
かつて己を朽ちさせたその面影。
それに、執着するようにしてーー。
※※※
揺れる焚き火の焔。
それに影を揺らし、アレンは木に背を預け座っていた。
焚き火の焔。
それには、どこか闇が混じっている。
それは。
【救済】
【火がないことから】
そんな意思をアレンが闇に表明したから。
闇はアレンに寄り添い続ける。
まるで、自らの主はアレン一人。そういわんばかりに。
ふと、そんなアレンの視線の先の茂みが揺れた。
アレンは無機質な瞳でそこを見据える。
果たしてそこから、草を分け、現れたのはーー
かつてアレンが【救済】を付与した、ダークウルフ。
その瞳。そこに、敵意は欠片もない。




