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赤が消えた世界。
空間が歪み、景色は赤無き世界に変貌していた。
エマの鮮烈な赤は、もはや存在せず、その服も髪も瞳も――灰色の影のように沈んでいた。
しかし、エマは嗤う。
「ふふ。どうしたの? それだけ?」
色を無くし瓦解する血の剣。
だがその声には、嗜虐の波が未だ微かに残っている。
だが、赤を失った世界では、感情すらもどこか遠く、冷たい静寂に溶けてしまったかのようだった。
アレンは踏みしめた足に力を込める。
闇に意思を込めながら。
周囲の空気がひび割れ、歪む。
アレンの掌。そこから黒く、どす黒い闇のような力が迸り、周囲を黒に染めた。
ペロリと舌舐めずりをしーー
エマは鋭い動きで距離を詰める。
まるで、獲物に取りかかる捕食者を思わせる動体の動きをもって。
まるで、赤に頼らずとも充分だと言わんばかりに。
「ふふ。はははッ!」
エマの蹴り上げられた、華奢な左足。
それが、狂笑と共に無彩色の空間を切り裂く。
並外れた身体能力。
【救済】
【蹴られることから】
アレンの闇。
それが、ぎしりと空間をねじり、エマの動線を外す。
ねじれた空間に足を取られ、エマは一瞬バランスを崩す。しかし、その瞳は興奮に輝いていた。嗜虐の感情は色を失ってもなお、内側から迸る。
後ろへ跳躍する、エマ。
そしてアレンと距離を置き、エマは声を紡いだ。
「不思議な力。その闇。どんな力なのかしら?」
エマの品定めをするかのような、眼差し。
「でもね、最後には闇は敗れる運命なの。ふふ。闇は勇者に勝てないの。それが、必然なのだから」
【殺意を刃に】
意を表明し、エマは微笑む。
そして、軽く振るわれた、エマの手。
刹那。目に見えぬ斬撃がアレンへと飛来する。
風の音。それさえも置き去りにし、アレンへとその牙を向けた。
【救済】
【迫る攻撃から】
同時に、アレンは手を闇を帯びた翳し、黒い力で斬撃を受け止める。
【救済】
【エマの斬撃から】
重ねられる、救済。
衝撃は掌から腕を伝い、骨まで震わせた。
だがアレンの表情に陰りはない。
そのアレンの姿。
それに、エマは昂る。
「いい。いいわ」
【救済】
【生きるという苦悩から】
アレンは力を集中させ、空間を再び歪める。
赤を奪った世界の中で、黒の力が広がり、闇がエマの体を包み込むように襲う。
だが、エマは苦しむことなく、笑う。
「あぁ、気持ちいい」
「貴方の闇。わたしを、苦悩から"救ってくれる"の?」
その笑み。
それはまるで、痛みを楽しんでいるかのよう。
闇がなそうとすること。それを、エマは悟る。
そして、呟いた。
「もしかして、貴方」
「救済の勇者?」
一瞬の静寂。
そして、エマの姿がふっと消え――アレンの背後かから、影のような形で再び現れる。
囁かれる、エマの言葉。
「わたしに苦悩なんてない。だから、私の"全て"は……貴方に救ってもらうことなんてないの。だって、わたしにはもう。なにもないもの」
どこか悲しげな声音。
しかし彼女の嗜虐の本能は変わらず、動きもまた異様。
そして救いさえも超越した、エマ。
アレンは、己の力だけでは、この相手を完全に封じることはできないと悟る。
だが、目を閉じ、呼吸を整え、アレンは内なる闇に問う。
【救済】
【救いを求めぬモノに救いは与えられるのか】
と。
闇は応える。
ただじわりとその密度を濃くして。
アレンはそれに悟る。
間接的な救済ではなく、直接的な救済。
それをもって、エマを救済すしかないと。
再び軋む、空間。
赤のない世界の中。その中で二人の戦いはより激烈に、より密度の濃いものへと変貌していく。
再び、エマはアレンの視線の先へと身を置く。
瞬きの間に。蝶のように跳躍しながら。
そして、赤が消えた世界――灰色の空間の中、二人は互いを睨み合う。
「できるモノなら、救ってみせて」
「救済の勇者様」
エマが一気に距離を詰め、鞭のような腕でアレンの顔面を打ち据えようとする。
【救済】
【奴の腕から】
アレンは瞬間的に体をひねり、空間ごとねじ曲げてかわす。
アレンの身から黒い力が広がりし、足元の地面を割る。破片が宙を舞い、エマの軌道を一瞬狂わせる。
だが、エマは空中で反転し、地に着地。
そして、残像を置き去りにし、再びアレンとの距離を詰める。
ぶつかる闇と勇者。
二人の衝撃が空間を震わせ、音もなく灰色の衝撃波が波紋のように広がっていく。
互いに手を組み合わせる、二人。
アレンは闇を集中させ、防御と反撃を同時に行う。
【救済】
【奴の足元の地。それが踏まれることから】
呼応し、エマの足元の地が消失。
足を取られ、エマは身のバランスを崩す。
そこにアレンは、拳を叩き込む。
エマの笑ったままの表情。
その、嗜虐に満ちた顔にーー
【救済】
【拳が外れることから】
【救済】
【躊躇うことから】
そんな救済を込めた拳。
それを躊躇いなく。
べきッ
と、響く鈍い音。
飛び散る、血。
しかしその色は無。
赤がない世界。そこでは血に色は無い。
あるのは静かに両膝をつき、肩で息をし、俯くーー勇者。ただ一人だった。




