⑩
胸を抑え、体が震え、まるで冷たい海に投げ出された小舟のようにその身を揺らすゴーダ。
「……っ」
言葉は出ない。出そうとしても、息苦しさがそれを拒む。
視線の先。月光に淡く輪郭を浮かべるのは、漆黒に包まれた二つの存在。
アレンの瞳は深淵のように黒く、少女の瞳もまた、純白の月光を呑み込むような暗黒を宿す。
ゴーダの指先がわずかに震え、眼前の机の角を握りしめる。
あの姿。忘れもしない。
つい先日、屋敷から放り出した奴隷。捨てた原因。それは、"顔面への制裁"の途中でゴーダの拳に鼻血をつけたこと。
「そ、ソフィ……じゃないか」
窒息の中。
ゴーダは必死に声を絞り出す。
「か、帰って。きた……のか?」
その顔に滲むは笑み。
助かりたい。その思いが滲む偽りの笑い。
「そ、そちら……のお方はーー」
「すくってくれる」
ゴーダの言葉。
それに被さるソフィの幼く掠れた声。
「すくってくれる。すくってくれる。すくってくれる。すくってくれる。すくってくれる」
反響するソフィの無機質な言葉。
表情は淡々とし、生気は一切宿っていない。
救ってくれる。その、この場にそぐわない言葉。
それにゴーダは狂気を感じる。
そして自身の死を想像した。
顔に汗を滲ませーー
「た、たすけ」
一歩、前に踏み出すアレン。
そして。
【救済する】
【ここで死んだ"弱き者たち"の恨みを】
呼応し、空気が重く歪む。
窓の外に漂う静寂の月光すら二人の漆黒に引き込まれていく。
そして、ソレは起こった。
ゴーダの頬。
そこに浮かぶ青痣。
合わせ、じんわりと広がる鈍痛。
誰も触れていない。
にもかかわらず、ゴーダの頬に滲む殴打の痕。
べきっ
続け様に滲む、殴打の痕。
「な……なにが…….おこ」
めきッ
目に見えぬ衝撃。
それがゴーダの腰にはしる。それはまるで蹴られたかのような感覚。
激痛に貫かれ、ゴーダは苦悶の表情を浮かべる。
よろめき、汗を滲ませたゴーダ。
時をおかず殴打と、蹴られた感覚がゴーダへと襲いかかかっていく。
そして、ゴーダは気づく。
いや気付かされてしまう。
"「制裁だ」"
これは、これまで己が小さき奴隷たちに行ってきたーー所業だと。
嗤いながら行ってきた、制裁だと。
だとすれば。
恐怖に引き攣る、ゴーダの顔。
だが、ソレは止まらない。
"「いたいッ、ぃだいッ、や、やめてください!!」"
目をくり抜かれ、殴り続けられた少女。
"「おかあ……さん。おかあ、さん」"
手足の骨をへし折られ、犬の餌にされた少年。
"「……っ」"
火にかけられ、虚な表情で焼き殺された少女。
目が闇に包まれ、手足の骨が折れられ、その身を闇色の炎に包まれるゴーダ。
叫びをあげようにも、もはや声は出ない。
室内に染み渡るのは、声にならぬゴーダの苦痛に満ちたうめき。
少女は見る。
ただじっと、ゴーダの姿を。
決して目を逸らすことなく。
そして、アレンは更に力を行使した。
【救済】
【死ぬことから】
ゴーダの心は凍りつく。過去に己が犯した所業の運命が、今、報いとして返ってくることを直感する。
心の中の命乞いを叫ぶ声。それは、もはや届くことはない。
漆黒の闇。
それがゆっくりと広がり、ゴーダの薄れゆく視界の周囲から光を吸い込む。
月光は影に沈み、屋敷の壁、机、窓の外の街並みまでもが漆黒に包まれていく。その闇の中心で、ゴーダは晒され続けた。
死。
それさえも許されず、ゴーダは所業の報いを受け続ける。己しか存在しない闇の中で。
そして、その血走った目に映るのは、もはや反抗も言い訳も通用しない漆黒の世界のみだった。




