11 寛容な紳士
「ほら、もう泣くな」
顔を真っ赤にしてベソをかく男の子のまえに長身の男が屈みこんだ。
男はメルフォルト王国の警備を任されている者だけに与えられる紺鉄色の上着を着こんでいる。
周囲の人の動きが慌ただしいのはここが病院だからだろう。そのなかで警備隊の制服を着た男と、薄汚れた服の子供は異色の組み合わせだ。
「お袋さんは命に別状はないって医者が言ってただろ? しばらく休めばよくなるんだ」
「で、でも……お仕事が休めないってお母さん言ってた。まえから無理してたの僕、知ってる」
これまでの経緯は簡単なものだ。
裏町の長屋に暮らす幼い子供が、家のなかで母親が倒れていると街頭に助けを求めてやってきた。
母を助けようと必死だったのだろう。道に飛び出して危うく馬車に轢かれそうになったのを通りかかった警備隊の男が助け出した。
子供の訴えに、自宅で倒れていた母親は保護され病院へ担ぎ込まれたのだ。
「親父さんはいないのか?」
「うん……ずっとまえに出てっちゃった。お母さんは二度と帰ってこないって言ってる」
どうやら母ひとり子ひとりの生活で、生計を立てるのに母親は無理を重ねてきたらしい。
子供は母親の苦労を知ったうえで、自分がどうにもできないことを嘆いている。
傍から見ても心が痛むが、男もどうするべきか迷った。
個人的な事情に踏み込み過ぎてはいないかと。
「家に戻ったら、すぐにお母さん仕事に行っちゃうんだ。お父さんの作った借金も返さなきゃいけないって」
なぜ毎日の生活に困っている母子が、そこまで負担を背負い込む必要があるのだろう。
理不尽な話に警備の男は溜息をついた。
「ずいぶん苦労をしてきたんだね」
ふたりの会話に割って入ったのはある美丈夫だった。
年は三十代前半くらいだろう。いい家柄の者だろう。着ている服は上等な生地であつらえたもので、佇まいにも気品が漂う男であった。金髪の髪に整った目鼻立ち。暗緑色の目が柔らかな弧を描いていた。
万人受けする美しい男性が存在するとすれば、彼のような人のことだろう。警備隊の男から見ても魅力的な紳士だった。
「さっきは手を貸していただき助かりました」
警備隊の男は迷わず紳士に向かって頭を下げた。
彼は子供を轢きかけた馬車に乗っていた人物だ。御者が子供を怒鳴りつけるのを窘め、警備隊の男と一緒に事情を聞いて、子供の母親を病院へ運ぶのに馬車まで提供してくれた。
「礼には及ばないよ。あそこで会ったのもなにかの縁だ。それより病人の症状が気がかりでね」
紳士は少年に視線を移した。
「きみのお母さんは、今晩ここに入院することになっているんだったね。そのあいだ、きみは私のところで預かりたいと思うんだが」
「え……?」
突然の申し出に少年は目を瞬かせた。
「うちの使用人は面倒見のいい者ばかりでね。きっときみの世話くらい誰かがしてくれるし、もちろん私が責任を持つんだからいい加減なことはさせないよ」
男の子は傍らにいる警備隊の男に答えを求めた。自分では判断のつかない年齢なので無理もない。
「明日、きみのお母さんに見舞いにこられるように手配をしておく。だれだって家族のことが心配だろうからね」
紳士の言葉に、男の子顔がぱっと明るくなる。
「本当? いつでも会える?」
「ああ。ちゃんとお医者さんに許可をもらうから気にしなくていいよ。私の家に行ってから、もう少し君の家のことを話してくれたまえ」
いつでも母との面会が許されると聞いて少年はみるみる元気を取り戻した。
紳士は本当に有言実行の人物だった。医師に確認をとって子供の面会の許可をとりつけたのだ。
意識の戻った母親にも事情を説明して子供を預かる話も決めてきた。その手並みたるや行動派のディランが舌を巻くほど見事なものだった。
だが、その行動には重い責任を負うことが前提だ。
「本当にいいんですか? その……こう言っちゃなんですが、あなたは行きずりの子供の世話を背負い込む必要はないはずだ」
警備隊の男の率直な物言いに紳士は苦笑した。
「たしかにそのとおりだがね、私は幼いころに母親を病気で亡くしている。あの子にはあんなつらい思いをさせたくないんだ。だれかの助けが必要なとき、手を差し伸べられるのなら、それはだれでも構わないだろう」
早々と馬車に子供を乗せ終えた紳士は、淡々と警備隊と男に語った。
「そこにいたのが私だった、それだけのことだよ」
晴れやかな笑顔で紳士は、相手に手を差し出す。男はやっと握手を求められているのだと気づいた。
「きみも最後までつきあってくれてありがとう。警備隊の予算も無駄になっていないとわかって勉強になったよ」
予算という言葉が出てくるとは、この紳士は何者だろうと思いながら男は握手に応える。
「はぁ……でも、これが俺の仕事ですから」
礼を言われるまでもないと警備隊の男は素っ気なく答えたが、紳士は気にも留めていない様子だ。
「私はギルバート・カベンディッシュ。ところで、きみの名前を教えてもらいたい。あの子にあとで聞かれたときに教えてやれないと困る」
「俺は、ディラン・ホワイト。メルフォルトの王都警備隊第三班所属です」
ディランの名前を聞いた紳士は目を瞠る。
「ディラン……もしや、きみは――」
「?」
紳士はなにか言いかけたが、口を噤み再度警備隊の男ディランに礼を言った。
「本当に助かったよ。きみの行動力がなければ、私も子供の家まで踏み込むことはできなかったからね」
感謝の言葉を言われているのにディランは妙な気がした。
「協力してもらったのはこっちで、礼を言われるべきなのはあなたのほうだ。本当にありがとうございました」
ディランの言葉にギルバートは心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「私のことを貴族の気まぐれとバカにしないんだね、きみは」
カベンディッシュ氏の乗り込んだ馬車が出発するのを見届けてディランは今度こそ病院の敷地を出た。
――ああいう貴族がたくさんいてくれれば、世の中だってもっとマシになるんだろうけどな。
ディランは貴族というだけで、庶民を見下す鼻もちならない人種をたくさん見ている。
庶民に躊躇いなく救いの手を差し伸べたカベンディッシュ氏のような存在は、疲れ切った人間の希望になると思った。




