08 無力感を糧に※挿絵あり
自分を心から愛してくれた母親を失った。
ポーシャが十三歳の冬。
ずっとふたりきりで生きてきた母娘ゆえに、ポーシャにとって母との死別は大きな打撃だった。
同時に人生において最初の転換期でもあったのだ。
雪降月に入り寒さはいよいよ厳しくなった。暖炉にくべる薪は、当時住んでいた近所の炭焼き職人に頼んで調達してもらったものだ。
当時は母に付き添う時間を最優先に考えていたため薪わりをする余裕はなかった。
「寒い日が続くわね……」
暖炉の薪を追加したポーシャの背中に、母が声をかけた。
「今日も雪が降るみたい。精霊たちがそわそわしているもの」
娘は暖炉の炎から母親に視線を移した。寝巻の上に厚手の上着を羽織っただけだが、それさえも母には重いのではないかと心配した。
ある災いを受け入れた時から、母は日に日に痩せ細っていった。すべてを覚悟している母親に対して、娘は不満がまったくなかったわけではない。
「体がつらいならベッドで横になったら?」
「構わないわよぅ。別に病気じゃないんだし、時間は大事に使わなくちゃ」
母の言葉にポーシャの表情が曇る。
椅子に座った母ミレッタは背もたれに体重を預け、ひとつ大きな息を吐く。
「必要な記録をつけておかなくちゃ……後々あなたの役に立つようにね」
「そんなもの要らない! だから無茶をしないで。お母さんはいつも無理を重ねすぎるんだから……っ」
ムキになって抗議するポーシャに対し、穏やかに笑みを浮かべた母親は小さく頭を振った。
「そうは言っても、あなたと一緒にいられる時間を無駄にするわけにはいかないでしょう。いつかあなたの役に立つものを残しておきたいのよ」
上着を羽織り直す母親の手は、ひどく痩せ細っていた。手の甲には青白い血管の筋が浮き上がっている。
母親の、ミレッタの言葉でポーシャの瞳に涙が込みあげてきた。
「どうして……どうしてお母さんが代わりに死ななきゃならないの?」
胸の奥に押さえ込んでいた本音をポーシャはぶちまけた。
「たまたま運命がそう動いただけよ。また同じ状況がきても結果は変わらなかったと思うわ……私が選んだのよ、ポーシャ」
椅子に座る母の膝にポーシャは縋りつく。
「わからない……どうしてなの? なぜ他人のために命を投げ出したの?」
「いつか、あなたにもわかるときが来るわ」
娘の頭を撫でる母の手はどこまでも優しかった。
母の言う「いつか」など来ない。来てほしくない。悲しみに押しつぶされそうな心が必死で叫んでいた。
――どうして私を置いて逝ってしまうの? どうして私はなにもできないの?
自分ひとりでは見つからない答えがずっと心のなかで引っかかったままだ。
今、この時でさえも。
「……ぅあっ」
意識が現実に引き戻された。
水底から急速に浮上したように、頭も胸も悲鳴をあげている。
――苦しい……息ができない。
腹から込み上げるなにかを魔法使いは必死に堪える。
まるで悪夢から目覚めたようだ。強張っていた体は虚脱感に襲われる。手の震えを止めるために固く拳を握りしめた。
今でも昔のことを思い出すと、体が拒絶反応を示すことがあった。吐き気やめまいもそのためだ。ポーシャは息を整え、自分の周辺を見まわした。
場所は館の居間だった。
変わらず暖炉の炎が燃えつづけている。先程となんら変わりはない。
「呪いだと……?」
相手のつぶやきに魔法使いはハッとして、目のまえの狼を見る。
狼の目が驚愕に見開かれていた。
相手が心を開放すれば、感情と記憶が自分へと流れ込む。
そして、その逆も。
自身で壁を作り覆い隠してきた過去が、同調した狼にも流れ込んでしまったのだ。
手っ取り早い方法だが、油断すると個人的な問題をこじ開けられることがある。
自分の弱みさえも。
「おまえの母親は、呪いで――」
最後まで言えず、狼は押し黙る。予期せぬことだったのだろう。稀人の末裔と思われる者が、第三者の呪いにより命を失った事実が。
「しかし、なぜ呪いを受け……」
「だから、私は魔法使いになったの」
狼の言葉を遮るように魔法使いポーシャは言い放った。
「ティアレスや稀人なんて関係ない。私はなにもできなかったことを後悔した。あのとき、的確な判断ができる魔法使いだったら、誰も悲しまず、苦しまずに済んだって。だから魔法使いになると決めたの」
ゴトリと暖炉のなかで薪が音を立てて崩れた。
救えなかった命はもはや取り戻せない。
けれど消えかけている命を助けることができたら…小さな希望に縋り、ポーシャは魔法使いの道を選んだのである。
「この生き方は、私が選んだものよ」
ポーシャの澄んだ声は、居間の空気を震わせた。
母の死後、自分の身上書が用意されていたことを、事後処理をしてはじめて知った。
所有してる家財証明や、ポーシャの身分証も。洗練された魔法使いを目指すならば、専門の機関で学ぶようにと手紙まで添えられていた。
親の看病で後のことに気が回らなかった自分に対して、母は数歩先まで考えてくれていた。心を配り、娘を愛してくれていた。
死んでからもなお、娘の背中を押してくれる母がいた。
だが、たったひとりの家族は、もういない。
ポーシャは、はじめて声が嗄れるまで泣いた。
無力な自分も、母を悼んで流した涙も絶対に無駄にしないと誓ったのも同じ日のことだ。
母、ミレッタ・ウォレンから受け継いだものは誰にも蔑まれるものではないと、ポーシャは胸を張って生きることにした。
――私は、救える望みが少しでもあるならば、その人を見捨てはしない……諦めはしない……!




