07 悲嘆
「どうなってるの……?」
ポーシャは愕然とした。
視界に広がる光景は明らかに現実ではない。
火狼ルーの額に触れたときから、夢のなかにいるような感覚だ。
薄い膜に覆われた舞台劇を見ているような気がしてくる。その舞台には客席との境界線もなく、ポーシャは狼と娘のまえに立っている。
エイダの姿を見て魔法使いはさらに混乱した。
ティアレスの娘エイダの容姿は自分にそっくりだった。一瞬、亡き母かと思ったほどだ。
以前森遭遇した火狼が、ポーシャを見て驚いた理由がわかった。遥か昔、自分と似た少女がたしかに存在していたのだ。
ポーシャは狼とエイダという少女のそばに立ち、両者の会話に耳を傾けているのに相手はまったく彼女に気づかない。
――私のことが見えていないのね。
「これは……記憶?」
『そのとおりだ、魔法使いよ』
頭上から火狼の声が降り注ぐ。
『過去の、年若い私とティアレスの娘の姿だ。おまえは知りようもない事実だ。あれが忌まわしい紛争のはじまりだった』
今のポーシャは、狼の頭のなかにいるのと同じだ。
「なにが起きたの? なぜ住人たちが傷つけあったの?」
『覇権争いだ。魔法の才能があることで彼らは驕り、そうでない者を見下し、制御しようとした……当時島の人口は百人も満たなかったというのにな』
狼は苦々しく告げる。
『エイダの父親はティアレスでは穏健派の人間だったが、弟はその力を利用して稀人の力を掌握しようとした。エイダの父親の死以来、抵抗勢力との戦いが激化していったのだ』
「あなたが言った滅ぼした、というのはこのことだったのね」
ポーシャは、血塗れの花嫁衣裳でルーにしがみつくエイダの姿を見つめながらつぶやいた。
『一滴の汚濁が澄みきった泉を汚していくのと同じだ。穢れは浄化されることなく全体を蝕んでいったのだ……結果、稀人たちの一部は自ら島の結界を破り、大陸へと逃げた』
「大陸に……?」
『悲劇はこれだけでは済まなかった。ティアレスには大昔から強い自浄作用がある。ときに魔法に近い力が働くのだ。その力が稀人を拒絶し、彼らは島で生きることができなくなった』
ポーシャは狼の言葉を比喩的に受け取った。
だが、火狼の次の言葉でさらに衝撃を受ける。
『例え話ではない。稀人はティアレスの大地に長居すると生気を奪われ。やがて死に至る。実際この目で憐れな亡骸を見たのだ』
「島にいるだけで死ぬってことなの?」
――大地が特定の種族を拒むなんて……そんなことあり得るの?
「そこまで拒まれるほどのことを、稀人はしたというの?」
戸惑うポーシャの問いに狼は直接答えることはなかった。
『私は大陸に逃げのびた稀人の子孫を探した。多くは大陸の者と交じわり、ティアレスの力を手放していた。だが魔法を使える者も残っている。大半は魔法使いと名乗って、な。それがティアレスの名残とも言える』
それが本当ならば、ポーシャには自分が稀人じゃないと否定するだけの証拠はない。
彼女自身、母親から出生について聞かされたことがなかった。母自身が知らなかったのか、敢えて話そうとしなかったのか……今となっては確かめようもないことだ。
『私はわけあって、エイダが寿命をまっとうしたのか見届けることができなかった。せめてその子孫……末裔が生きのびているか確かめようと大陸を旅してきた』
「旅って、三百年も?」
また狼は返事をしなかった。
火狼はたしかに長命なのかもしれないが、無謀な放浪と言ってもいい。途方もない時間をかけても徒労に終わる可能性が大きいのだから。答えが見つかるとは限らないのに。
『先日ティアレスの子孫であることを売りにしていた魔法使いを探し出した。この国の沿岸の土地だ』
火狼は何度大陸を巡ってきたのだろう……人ひとりの一生ぶんよりも長い時間だ。
孤独に過ごす時間の流れ。
ポーシャは想像がつかなかった。
『ヤツはとんだ食わせものだった。ティアレスの血の流れも汲んでいなかったし、私を見たとたん攻撃してきたのだ。思慮のかけらもない。末裔が聞いて呆れるわ!』
もしや、それで足を負傷したのか。ポーシャははじめて狼と遭遇したときの足のケガを思い出した。
狼が人間に不覚をとったとは思えない。火狼と対峙したポーシャだからこそわかる。
そこである可能性が脳裏を過る。
――人間が相手だから、反撃しなかった……?
そのほうが合点のいくことが多かった。剣を持ったディランを攻撃しなかったこともそれで説明がつく。
人を傷つける気はない――火狼にも心がある。その根底にはエイダに対する想いがあるとわかる。
いつか彼女の繋いだ命に出会えるのでは、そんな希望に縋りながら長い時を生きてきたのだろう。
「その足で星屑の森にやってきたの?」
『そうだ……やっと、やっと見つけたのだ。おまえたちを』
――おまえたち?
魔法使いは、火狼に抱きつくエイダの姿に視線を戻した。彼女の細い手は震えている。
女性の青白い痩せた手。
ポーシャにはそれが引き金になり得ることがわかっていた。
――まずい。
視覚的に流れ込んだ情報は、自分の記憶を呼び覚ます。
――だめ。
『どうした、末裔の娘よ?』
一瞬にして、自分の過去が蘇った。
暖炉の炎がちらちらと揺れる。
十三歳の冬。
青白い痩せた手を見て思い出したのは、母の手だ。
すでに魔法使いとしての仕事ができなくなっていた母のそばに寄り添っていた自分。
できることは、衰弱していく母の姿を目に焼きつけることだった。
――ああ、やめて。思い出させないで!
いや、本当は片時も忘れてはいない。頭から離れない。
あの悲しみ、苦しみ……悔しさも。
雪の降る寒い日。
ポーシャは最愛の母親を亡くした。




