24 予兆(1)
冬にも関わらず、森に穏やかな風が吹き抜けていく。
岩場に佇む狼は、咥えていた魔法使いの髪を地面に置き。口のなかでもごもごと言葉を発したように思われた。
次の瞬間にはぼっと髪が燃えあがり、炎の先端は小さな文様を描きはじめた。
狼はチリチリと象られたそれに目を細める。
「本物のウォレンの末裔だったか……」
すべて燃え尽き、灰に変わったのを見届けて狼は魔法使いの家がある方角を見据えた。
「まさか一度に二人も見つかるとはな」
狼のつぶやきは、風に巻き上げられた枯れ葉の音にかき消されていった。
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日没後は、森はすっぽりと闇に包まれ、アランははじめて魔法使いの屋敷に泊まることになった。
彼をカタルの村まで送り届けることは可能だが、狼と遭遇したあとだ。用心しておくに越したことはないと大人たちが判断した。
客間に間に合わせのベッドを運び込み、少年と剣士はふたりで眠ることにした。
アランは、外泊する興奮でベッドに入った直後はなかなか寝つけなかったが、ディランと話しているうちに眠気がさしてきたらしい。
一時間も経つとベッドから子供の寝息が聞こえてきた。幼い寝顔を微笑ましく眺めても、ディランの昂った神経は鎮まる気配を見せない。
未知の獣と対峙したことで興奮しているのだ。そのうえ精霊を目撃するというおまけもついている。これまで無縁だった魔法や精霊といった世界に足を踏み入れている自分にも驚いていた。
――とにかく結果よければすべてよし、それでいいじゃないか。
人間の姿に戻れたことを最初に喜ぶべきだとディランは自分に言い聞かせた。
そう、この森にこなければアヒルのままだった。
王都の魔法使いたちの多くは簡単に匙を投げて……ひと月以上時間をかけてポーシャが研究してくれたおかげだ。
「あ、そうか……」
まだ彼女に礼を言っていないことに気づいた。
狼の出現により、それどころではなくなっていたのだ。本来なら感謝してもしきれない。「ありがとう」のひとことくらいは言うべきだった。
ディランはむくりとベッドから起き上がる。ポーシャはまだ居間にいるかもしれない。
一階へ下りるとまだ居間のほうから明かりが漏れていた。念のため剣も携帯している。
居間へ入ると、テーブルにあるランタンには灯りが灯っている。暖炉の火は消えかけていた。くべられた薪が炭化して燃え尽きる寸前だったので、ディランはそばにあった新しい薪を追加した。
そして長椅子には。
読みかけの本を胸に抱えたまま魔法使いが眠っていた。
ディランが近づいても目を覚ます気配はない。
「疲れているに決まってるよな」
屋敷全体に防御や結界魔法をかけ直したと言っていたので彼女が魔力を消耗したのはまちがいない。
ここ最近ディランに魔力を吹き込んでいたうえ謎の狼の動きを封じるのにも魔法を使っている。そんな状況下でもとの姿に戻してくれたのだ。
寝顔は普段よりもずっと幼い印象を与える。いつか年齢を確かめようと思ったが、悪友の言葉を借りると女性に年齢を尋ねる行為は野暮なものらしい。
「……」
以前考えていたように、ポーシャを抱えて寝室に運ぼうかと手を伸ばし、ディランははたとわれに返った。
――触れてもいいんだろうか。
彼女は魔法使いであるまえに、人間でありひとりの女性だ。相手に許可なく体に触れるのは行儀以前の問題だろう。
――魔法使いでも……女だからなぁ。
ディランは生計を立てるために剣の鍛練を積んできた。俗っぽい遊びには縁がなく、義父の家には料理人の中年女しかいないため、そういった機微に疎いと言われても否定はできない。
だが、慎重に扱わなければならないことは承知している。
触れてみたいような、そうでないような……ひとことで説明のつかない生き物であることはまちがいない。
「危うきに近寄らず、か」
一方では、このまま放っておけるかと胸がざわつく。
止むを得ず、ディランは予備の毛布を眠る彼女にかけてやることにした。
手も脱力していたのだろう。開いたままの分厚い本が床に滑り落ちた。思った以上に大きな音だったので、彼女が起きてしまわないかヒヤリとするほどだ。
魔法使いは変わらず規則正しい寝息を立てている。安堵したディランは日に焼けた重い本を拾いあげて目を瞠った。
変色したページの一部に目が釘づけになる。
そこに記されていたのは、自分の肩にある痣と同じ絵だったからだ。




