第88話 放たれた矢
ティタンのメイスの力によって、ある場所へと運ばれた魔王……そこはギースが『妖精の針』で標的を串刺しにすると決めた場所だ。
敵の狙いが読めず焦る魔王だが、足元の床に付けられた×印にも、女神像の裏に設置されたボウガンにも気付かない。そうこうしている間に矢の発射時間が迫る。
(3……2……1……今だッ!!)
傭兵がカウントダウンを終えた瞬間、ボウガンから矢が発射された。ビュウッと音を立てて放たれた矢の速度は非常に速く、着弾に一秒も掛からない。
矢の発射音に気付いてザガートが慌てて振り向いた瞬間、魔王のシルエットに矢が重なってドシュッと肉が刺された音が鳴る。トマトのように赤い血がボタッ……ボタッ……と滴り落ちる。
魔王は傭兵に背を向けたままピクリとも動かない。倒れるでもなく、悲鳴を上げるでもなく、刺されたポーズのまま映像を一時停止したように固まる。生きているのか死んだのか判別が付かない。
ルシル達は戦いを見届けながら一言も発しない。本来魔王が死んだかもしれない状況に悲鳴を発するべき所だが、真剣に見入ったあまり言葉が出ない。目をグワッと開いて一連の光景を凝視したまま、ゴクリと唾を飲む。
誰も一歩も動かないまま、数秒が経過する。辺りはシーーンと静まり返り、場の空気が俄かに重くなる。ヒュウッと冷たい風が吹き抜けて、砂埃が空に舞う。この静けさを破ってはいけない雰囲気があり、何とも言えない異様な緊張感が漂う。
(やった……遂に魔王を仕留めたぞ!!)
ギースが勝利を確信したのも束の間……。
「クククッ……」
魔王が沈黙を破ろうとするように言葉を発する。それと同時に傭兵の方へゆっくりと振り返り、真実を見せる。
……ザガートは右腕を盾にして心臓を庇っていた。矢は右腕に深く突き刺さり血が流れ出たものの、向こう側へと突き抜けるまでには至らず、腕に刺さった状態のまま止まる。
矢の発射音に気付いた瞬間、咄嗟に急所をガードしたのだ。それが間に合う形となった。
矢を引き抜くと、傷口はみるみるうちに塞がっていく。二度と敵に使われないよう、矢の先端を手で握り潰す。
「フフフッ……フハハハハッ……ハァーーーッハッハッハァッ!!」
魔王が興奮気味に高笑いする。最初は声を押し殺すように、徐々に声量を上げていき、最後は大きな声を出す、いわゆる『三段笑い』をする。
これまで見た事が無いほど歓喜に満ちた表情をしている。人生で味わった事が無い喜びを得たように恍惚としている。
死なずに済んだ事を喜んでいるように見えたが、そうではない。
「よくぞ……よくぞ俺をここまで追い込んだッ! 褒めて遣わす! この世界に来てから俺に血を流させたのは、お前が初めてだ! ボウガンの速さが今の二倍あったら、俺は心臓を貫かれていただろう!!」
傭兵の健闘ぶりを称賛する言葉が口を衝いて出た。男の実力の高さを認めて、死の恐怖を与えてくれた事に尊敬の念すら湧く。
魔王の中にあったのは男への恨みではない。むしろ逆だ。
魔王は予想を覆す男の戦いぶりに、ただただ感激した。ある種の感動すら覚えた。仲間にしたいとさえ感じた。
「……なんてこった」
ギースが残念そうに言葉を吐く。喜ぶ魔王とは対照的に、落胆したようにため息を漏らす。失意の奈落へと突き落とされて、ガクッと膝をついてうなだれる。ここまでやっても仕留めきれないのかと深く絶望する思いに囚われた。
魔王の反応速度が想定通りなら殺せる筈だった。カフカから送られた映像が能力の全てなら、そうなる計算だった。結局魔王はこれまで一度も本気を出していなかった事になる。それが男の計算を狂わせた。
「もうオシマイだ……アンタを殺す手段は一つも無くなった。煮るなり焼くなり好きにしろ」
地面に両手をついて下を向いたまま自暴自棄になる。手札を失った事を伝えて、戦意を喪失した素振りを見せる。
男がやる気を失った姿を見て、ザガートがズカズカと歩いていく。彼の前に立ち、声を掛けようとした瞬間……。
「……なぁんて、言うとでも思ったか!!」
ギースが大声で叫びながら顔を上げてニヤリと笑う。右腕に嵌めたガントレットの甲に仕込んであったロングソードの刃がシュッと飛び出すと、パンチを繰り出すような仕草でそれを魔王の心臓に突き刺そうとした。
「……そう来るだろうと思った」
相手の狙いが読めていたように魔王がサッと横に動いてかわす。攻撃を空振って隙を曝け出した男の顔面に全力の裏拳を叩き込む。
「バッ……ドブルゥゥゥゥァァァァアアアアアアアアーーーーーーーーッッ!!」
傭兵が滑稽な奇声を発しながらゴミのように吹き飛ぶ。強い衝撃で地面に激突すると、豪快に大地を抉り上げながら何十メートルも押されて、大量の砂埃を巻き上げた。最後は地面に体が半分めり込んだまま手足をピクピクさせた。
殴られた衝撃で全身血まみれになり、あちこち骨が砕けている。立ち上がる力さえ残っていないのが一目で分かる。
今度ばかりは演技でなく本当に重傷を負っていた。それどころか何の治療も施さなければ、数分と経たないうちに命を落としそうだ。
更に五分が経過した事により、これまで持続していたハイパードリンクによる全能力十倍強化の効果が切れて、男を包んでいた金色のオーラが消えてなくなる。その事も勝敗が決したと思わせるのに拍車を掛けた。
ザガートは倒れた傭兵に向かって歩いていく。彼の前に立つと、腕組みしたまま勝ち誇ったように相手を見下ろす。服従しろと言いたげな視線を向ける。
「今度こそ本当にオシマイだ……年貢の納め時っつうヤツか? へへ……だが悪かぁねえ」
ギースが観念した言葉を吐く。息も絶えだえになり、虚ろな目をしながらも満足げにニッコリ笑う。完全に死を受け入れた男の顔になる。
「……お前は殺すには惜しい男だ。俺とここまでやり合えた相手を他に知らない。もしこの先俺と互角に渡り合える勇者が現れなければ、お前を最強の人間と認定しても良いほどだ」
ザガートがギースの健闘ぶりを褒め称える。自分を追い詰めた男の実力を高く評価して、最大限称賛する言葉を送る。
「降伏しろ……そうすれば部下として取り立ててやらん事も無い」
厚遇する意思を伝えて、仲間に加わるよう促す。
「魔王サンよぉ、馬鹿言っちゃいけねえ……俺はアンタを殺すために雇われたんだ。その俺が勝負に負けたからハイ降参しますなんて、そんなダッセェ真似できっかよ」
傭兵が魔王の誘いを即答で断る。何を馬鹿げた事をと言いたげに一笑に付す。魔王の部下になる考えは一ミリも持ち合わせていない事を伝える。
「そうか……だがどうするつもりだ? 部下にならないと言うなら、俺も自分を殺そうとした相手を生かしておくほどお人好しではない。ここで命を失ってしまっても構わないのか? まだやり残した事があるんじゃないか」
魔王が尚も問いかける。死んでも後悔しないかと確かめるように念を押す。
「死ぬ覚悟なら……とっくに出来てる」
ギースがそう口にしてニッと笑う。欠けた奥歯に埋め込んであった小石のようなものをベロで取り出して、力任せにガリッと噛み砕く。次の瞬間……。
男の体が一瞬眩い光を放った後、大きな音を立てて爆発する。その爆発の威力は凄まじく、大地が激しく揺れて、周囲の瓦礫を吹き飛ばすほどの突風が巻き起こる。天に向かって巨大な炎が噴き上がり、男の姿は何処にも見当たらない。
「なっ……何だとぉぉぉぉおおおおおおーーーーーーーーっっ!!」
突然の出来事にレジーナが声に出して驚く。予想外の結末に動揺せずにいられない。
ルシルもなずみも、こわばった表情のまま固まる。大きな爆発を前にして言葉も出ない。
ザガートは爆風に呑まれても手傷を負わなかったが、それでも精神的ショックは計り知れない。何が起こったのか全く分からず、状況を理解するのに時間が掛かった。
一瞬、男が爆発に紛れて逃げた可能性を疑った。だが彼と同質量の黒く焦げた肉片が飛び散っており、その考えを瞬時に否定する。あれだけ深手を負っていながら巨大な肉を用意して逃げ去るなど到底不可能な所業だ。
(他人に服従して生き長らえるより、誇りある死を選んだという訳か……)
傭兵の死を確信して深く残念がる。才能ある人物を仲間に出来なかった事に、欲しいものが手に入らないモヤモヤを抱く。蘇生術か生命創造を使う手もあったが、敢えてそれをしない。彼が自らの意思で服従しなければ満足しない思いがあった。
ザガートは衣服のポケットに手を突っ込んで、一枚のコインを取り出す。ギースが戦いが始まる前に捨てたのを拾い上げたものだ。
「……三途の川の渡し賃に使うがいい」
そう口にすると、男が死んだ地点に向かってコインを放り投げる。
……コインはころころと地面を転がっていき、表を上に向けて倒れた。




