第85話 ギースという男
「隻眼の傭兵ギース……だとぉ!?」
魔王が果たし状を読み上げると、手紙の送り主の名を聞いたドーバンが俄かに色めき立つ。慌てて椅子から立ち上がり、表情に焦りの色が浮かび、額から滝のように汗が流れだす。ギースという人物に心当たりがある事が一目で分かる。
驚いたのはドーバンだけではない。酒場にいた他の冒険者達も、その名を聞いた途端どよめきだす。皆が恐怖のあまり体を震わせながら、ヒソヒソと小声で話をする。賑やかだった酒場が一瞬にして男の話題一色に染まる。
「そのギースとやらは、そんなに有名な男なのか?」
ザガートが不思議がるように首を傾げた。彼らが何に怯えているか全く分からず、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
ここにいる連中は魔王軍十二将に勝てないとはいえ、いずれも死線をくぐり抜けてきた熟練の戦士だ。ヘルハウンドやミノタウロスに勝てる者も、中にはいただろう。にも関わらずそれほどの実力を持った猛者どもが恐れおののく姿に、魔王はギースという男に興味が湧く。
「ああ……アンタは異世界から来たから知らねえだろうが、俺らの業界じゃかなり有名だ。傭兵に片足突っ込んでてヤツの名を知らねえ者はいねえと言ってもいい」
魔王の疑問にドーバンが答える。額から流れ出る冷や汗を右腕で拭い、少し疲れた表情をしながら、件の傭兵について語りだす。
「傭兵ギース……十年前まではパッとしない、うだつの上がらないチンケな男だった。体だけは鍛えてたが、実戦になるとへっぴり腰になる、ビビリなチキン野郎だったのさ」
男が最初は大した戦士では無かった事を口にする。
「それが十年前のある戦いで左目を失ってな……それからヤツは変わった。恐怖心を完全に失くしたヤツは、どんな状況でも冷静に物事を判断するマシーンへと変貌したのさ。それからの戦績は凄まじかった。自分にこなせる依頼かどうか受ける前に判断し、一度受けた依頼は絶対にしくじらねえ。ヤツの名は傭兵界隈に轟いた。いつしか地上最強の傭兵と呼ばれる所まで上り詰めちまった」
片目を失ったのをきっかけに一流の戦士へと変わった事を告げる。恐怖心が彼にとって唯一の弱点であり、それを克服した結果恐ろしい強さを身に付けた事が窺える。
「だが何より恐ろしいのは、ヤツが金さえ積まれれば魔族の依頼だろうと受けるって点だ。現に勇者になる事を目指して旅立った戦士が、これまで二十人殺られた。その手段もえげつねえ。ヤツは標的を殺すためなら、毒でも女でも人質でも、なんでも使いやがる……ヤツは紛れもなく殺しの天才だ」
ギースが魔族の依頼を受けて勇者候補を二十人殺した事、目的の為なら手段を選ばない事を教える。
ドーバンの表情に浮かんだ苦悩……それはもしギースに殺されなければ、そのうち何人かは実際に勇者になったかもしれない未練に他ならない。
じっくり成長するのを待てばいずれ出たかもしれない芽を、未来ある若き才能を、ギースという男は咲く前に摘んでしまったのだ。
「……ザガートさんよぉ! こんな勝負、受けたってアンタが得るモンは何も無ぇ! ヤツの誘いなんて断っちまいなッ!!」
ドーバンは決闘を受けても魔王に利が無い事を説いて話を終わらせた。
「……そのギースという男、ますます会ってみたくなった」
ザガートがそう口にしてニヤリと笑う。顔をうつむかせたまま目だけ正面を向いて、悪魔のような表情をする。
とても決闘を思い留まる男の顔ではない。それどころか傭兵の凄さを知らされてウズウズする。
「ドーバンよ……忠告してくれた事には感謝する。だがそれほど名の知れた人物の誘いとあっては、受けない訳には行かなくなった」
マントを右手でバサッと開いて風にたなびかせながら、自らの方針を伝える。
決闘を挑んできたのが単なる小者なら、無視するつもりでいた。何処の馬の骨とも知れない輩の遊びに付き合う義理は無かった。だが男の素性を知らされて、魔王は勝負を挑んできたのがただの小者ではなく、付き合うに値する人物だと、そう考えた。
「やれやれ……俺としちゃあ、本気で思い留まって欲しかったんだがなぁ。やめさせるどころか、闘争心に火を点けちまった」
ドーバンが呆れたように苦笑いしながら、自分の頭を手でペチッと叩く。翻意させるための説得が逆効果になった事を深く残念がる。
「分かったぜ……もう止めやしねえよ。だがな、魔王サンよ……アンタの命は、もうアンタ一人だけのモンじゃねえんだぜ。その事を忘れねえようにな」
説得は無駄だと諦めて、せめて魔王が無駄死にしないように念を押す。
真剣な顔付きで相手の目をじっと見ながら放たれた言葉に、店主の切実な思いが宿る。今日会ったばかりだというのに、十年来の親友に向けて言ったような思いやりのある言葉だ。
「ああ……分かっている」
店主の忠告に魔王がニッコリ笑う。相手を気遣う優しさ溢れる態度に胸を打たれたように穏やかな笑みを返す。
ふと後ろを振り返ると、ルシルとなずみが暗い顔をする。あえて声には出さずとも、魔王が討たれるのではないかと不安を感じた事が一目で分かる。
「大丈夫だ。約束する……俺は愛する女を置いて、自分だけ死ぬようなマネは絶対しない」
ザガートは二人の不安を打ち消そうと、頼もしい台詞を吐きながら、優しく頭を撫でるのだった。




