第246話 リンゴか、バナナか。
仲間に別れの言葉を告げた魔王……最終決戦の地を目指して一路進み続ける。
敵地を目指して歩く間、魔物が襲ってくる気配は無い。元々アザトホース配下の魔族は大魔王の死とともに消滅したが、神が創造した怪物が待ち伏せてもいない。ただ渇いた風が吹き抜ける閑散とした荒野が何処までも続くだけだ。
最終決戦前の異様な空気を感じたのか、ネズミや虫などの野生動物の姿すら見かけない。静寂に包まれた荒野を一人の男が黙々と歩き続ける姿は一抹の寂しさすら感じさせる。
キャンプ地を離れた魔王が一時間ほど歩いていると、大きな丘が見えてくる。更にその上に古代ギリシャ風の立派な神殿が建っているのが視界に入る。
神殿は年代を感じさせる古代の建築物だったが、風雨に晒されて朽ちたりしておらず、新築のようにピカピカしている。神のバリアで汚れから守られたのだろうか。
(歴代の勇者の亡骸が埋葬されたと言い伝えられる、ゴルゴダの丘……その上にそびえ立つ神の神殿、か)
最終決戦の地を前にして、ザガートがその名を口にする。彼の地に伝わる宗教的伝承に思いを馳せた。
しばらく物思いに耽るように神殿の外観をただボーッと眺めたが、それにも飽きるとズカズカと歩いていき、正面の入口から中へと入る。
神殿の中はシーーンと静まり返っていて、人の気配を全く感じさせない。使いの者が出迎えに来たりもしなければ、醜悪な怪物が襲いかかってきたりもしない。あまりの静けさに、本当にここに神がいるのか疑いたくなるほどだ。
(てっきり武装した天使かワルキューレの大群が総出で出迎えてくれると踏んでいたが……静かなものだな)
敵の壮大な歓迎が無かった事に魔王が拍子抜けする。天使の集団と戦うハメになると覚悟していただけに、予想が外れた形となる。
確かに神は一対一での決闘を提案したが、そうならない事も想定していた。その心構えは杞憂に終わった結果になる。
ファンタジーのラストダンジョンといえば、多数の敵が待ち構えているのが定番だ。あまたのザコを掻い潜り、数体の中ボスを倒して、最後にラスボスと対面するのがお約束だ。実際アザトホースの城はそれに近い形を取っていた。
だが真の最終ダンジョンといえる神の神殿においては、そうはならなかったようだ。あるいは大魔王サタンが悪魔の軍勢を率いて攻めてきたならば、神もそうしたかもしれない。
◇ ◇ ◇
ザガートが神殿の回廊を黙々と歩き続けていると、大きな鉄製の扉がドンッと目の前に立ち塞がる。かつて勇者アランが出入りしていた時には無かった代物だ。
扉の左右に一つずつ配置された台座の上に皿が乗せられており、右の皿にはリンゴが、左の皿にはバナナが乗せられている。
扉の遥か頭上にある空間に、大きな鎌を手にした死神がいて、「ヒョッヒョッヒョ」と笑いながら円を描くように空を飛んでいた。
ザガートが扉の前に立ち止まると、扉の中央にボヤァッと人間の顔のようなものが浮かび上がる。
魔王の前に現れたその顔は、ツルツルのハゲ頭をした強面の中年男性のモノだ。肌は青色に染まっており、目はギョロリと見開かれて相手を睨む。見た事のない顔だが、生身の人間とはとても思えない。
半透明に透けていた為幽霊のような印象を見る者に与えるが、立体映像の類の可能性もあった。
「魔王ザガート、よくここまで来た……我はこの扉に宿りし魂。神ヤハヴェから分たれた魂の欠片にして、汝の知恵を試す為に送り込まれた者なり……」
顔だけのハゲた中年男性が自己紹介する。自らを唯一神の分霊だと告げて、魔王の知識を試す試験官の役目を果たしに来たと教える。
「我は今から汝に一つの問いかけをする。汝が正しい答えを知る者ならば、鍵を手にするであろう……だが間違った答えを選べば、死神の鎌が汝の首を即座に刎ねる。くれぐれも心するがいい……」
危険なクイズを出す事を予告して、心構えをするよう前もって忠告する。答えなければ先に進めないが、回答を間違えれば命を落とすリスクのある賭けなのだという。
頭上を飛ぶ死神は、失敗した時に首を刎ねる処刑人であったようだ。
魔王が承知したようにコクンと頷くと、ハゲ頭の中年男性が問いの言葉を発する。
「アダムとイヴが口にしたと言い伝えられる知恵の果実は、リンゴかバナナか……答えよ!!」
かつてエデンに植えられた木に生っていた果実が何であったかを問い質す。
「……」
ザガートはしばし気難しい表情を浮かべて考え込んでいたが、やがて答えが決まると、左の皿に乗せられたバナナを手に取って、皮を剥いてムシャムシャと食べる。途中ガリッと歯に何かが引っかかったので口からペッと吐き出すと、鉄製の鍵が出てきた。
鍵を鍵穴に挿し込んで横に回すと、カチッと音が鳴る。手で押すと扉がギギギッと音を立てて開く。死神は襲ってきたりしない。
「……何故リンゴを選ばなかった?」
顔だけのハゲた中年男性が、ザガートの選択の理由を聞く。
顔の番人は、多くの者が先述の問いにリンゴを選ぶだろうと考えた。世間では広くそうだと信じられているからだ。
だがザガートは俗説とは異なるバナナを選択した。死神が襲ってこない所を見れば魔王の選択が正しかった事になるが、何故その答えに行き着いたか、当てずっぽうではない理由を聞きたかったようだ。
「ヤハヴェは古代の中東で信仰された神……然るにエデンから流れる水はユーフラテス川へと繋がっていたと聖書には書かれてあり、その土地ではリンゴは決して育たない」
魔王が番人の問いに答える。聖書に書かれた記述からエデンが中東の地にあると見抜いて、知恵の果実をリンゴだとする説は誤りだと指摘する。二者択一である以上、リンゴが間違いであるならば、もう一方を選ぶのは自明の理となる。
「……その通りだ」
顔だけの番人は目を閉じて下を向いて深刻そうな表情を浮かべると、ただ一言そう呟く。魔王の主張が正しいと認めると、役目を終えたようにスゥーーッと姿が薄れて消えていく。死神も顔と同時に姿を消して、神殿の中は再び元の静寂に包まれる。
顔の態度は敗北を認めて悔しがったようにも、魔王の知恵の深さに感服したようにも見えた。
ザガートはしばらく何もせずその場に立ち止まっていたが、何かが起こる気配も無いので扉の奥に広がる回廊に向かって歩き出す。
(バナナを食べたせいで楽園を追放された……冷静に考えれば、何ともおかしな話だ)
かつてエデンで起こったであろう出来事を頭の中で想像して、その滑稽さに思いを馳せるのだった。




