第212話 アランの過去(前編)
神殿内にある寝室のベッドで安らかに眠る勇者アラン……これは彼が夢の中で見た過去の記憶。
まだ崩壊してなかった頃の第八世界……その大陸の中央にある大きな町。
太陽が昇った昼下がり、商店街の表通りの一角で、二人の男女が立ったまま向き合っていた。
二人のうち一人は勇者アランだ。魔王と戦った時と同じ服装をしている。
もう一人は勇者と同年代の二十二歳に見える若い女性だ。マイクロビキニのような露出度の高い布を肌に纏っており、両手と両足首に金属の輪っかを嵌めた、踊り子のような姿をしている。
長めの髪はピンク色でウェーブが掛かっていて、肌は東洋人のような肌色をしている。容貌は整っていて美しく、体付きはムチムチしていて色気がある。
二人は下を向いたまま黙っており、一言も喋らない。互いに顔を合わせた事に気まずさを感じたように何とも言えない表情をしている。旧知の仲が再会を喜んだ雰囲気とはとても思えず、あまり良くない出来事があったのは一目瞭然だ。
人通りの多い街中は大きく賑わっていたが、行き交う人々も、通り過ぎる馬車も、二人には目もくれない。存在に気付いていないのか、特に興味が無いのか、何事も無かったように脇を通過していく。二人は完全に雑踏の中にあった。
「聞いたよ、ナターシャ……リックと婚約したんだってな」
アランが沈黙の空気に耐え切れず口を開く。目の前にいる女性が、自分以外の男性と婚約した話をする。よく見ると女性の左手の薬指に結婚指輪があった。
「うん……私、おなかに赤ちゃんがいるの。あの人との間に出来た赤ちゃん……」
ナターシャと呼ばれた女性が、顔をうつむかせたまま返事をする。大事そうにお腹を手で摩りながら、妊娠した事実を告げる。
「ああ……アイツから聞いたよ」
アランが女の言葉に答える。既にこの場に来る前にリックという男性から妊娠の事実を明かされた事を伝える。
「……」
二人はまたも下を向いたまま黙り込む。お互いに何を話せばいいか、話したい事があったとしても、どう気持ちを伝えればいいか……それが分からないように口をつぐむ。口の中が急に酸っぱくなって、胃が締め付けられたようにキリキリ痛む。
この場から一分一秒でも早く離れたい気持ちが彼らの中にあった。こんな心情になるなら、会わない方がマシだったんじゃないか……そんな考えが一瞬頭をよぎりかけた。
「それじゃ俺、行くから。会うのはたぶんこれが最後になる……魔王城に行く前にもう一度だけ顔が見られて、本当に良かった」
アランは顔を上げてニッコリ笑うと、別れの言葉を口にする。最後の決戦の場へと赴く事、命を落とす可能性がある危険な戦いの前に再会できた喜びを伝える。
無理に作ったように見えた笑顔は何とも儚げだ。今にも消え入りそうな弱々しさがある。想い人に別れの挨拶を済ませられた喜びと、想い人が自分以外の男と結婚した悲しみが、縄のように絡み合った複雑な感情が読み取れた。
「……お幸せに」
最後にそう一言だけ告げると、女に背を向けてズカズカと歩き出す。一度も後ろを振り返らず歩みを進めて、雑踏の中へと溶け込むように消えていく。
「あっ……」
女は一瞬彼を呼び止めようと何かを言いかけたが、何も言い出せず押し黙る。そのまま男が去っていく姿を見送る事しか出来なかった。
◇ ◇ ◇
時間は一気に飛んで魔竜王を討伐した後……町から遠く離れた場所にある、中世ヨーロッパ風の巨大な王城。その玉座の間での出来事。
五十代半ばに見える国王らしき服を着た男性が椅子に座っていた。体型は痩せ型で茶色い髭を生やしていたが、表情は凛々しくてキリッとしていて、背筋は真っ直ぐ伸びていて、有能な指導者らしい頼もしさを思わせる。
国王から数メートル離れた床に勇者とその仲間達、五人の男性がいた。皆床に片膝をついてひれ伏している。彼らの両脇に城の兵士達がズラッと並ぶ。
「勇者アランよ! 魔竜王ヴェルザハークを、よくぞ討ち滅ぼしてくれた! このヴィタール国王ハーバイン、心から礼を言う! そなたの此度の活躍に、我は何を以て報いる事が出来ようか!!」
王が勇者に対する感謝の言葉を述べる。彼が成し遂げた偉業を褒め称えて、救国の恩に報いたい気持ちを伝える。
「私は聖剣に選ばれた者として、使命を果たしたまでにございます」
アランが王の言葉に恐縮するように頭を下げる。褒められても舞い上がった表情にならず、当然の事をしたまでだと謙遜した態度を取る。
「何を謙遜する事があろうか! アランよ、そなたはこの国のみならず、世界全てを竜王の魔の手から救ったのだ! 醜悪なドラゴンが野山を荒らし、無辜なる民が無惨に焼き尽くされる暗黒の時代は終わりを迎えた! 人々が長く到来を待ち望んだ平和の時代が、遂に訪れる! 彼らはそなたの英雄的な活躍を、子々孫々まで語り継ぐだろう!!」
王が謙遜する必要は無い旨を伝える。勇者がこれまで行った功績を並べ立てて、彼が伝説として語られる救世主になったと語る。
勇者の活躍について王が語る口ぶりはとても嬉しそうだ。世界が魔物の脅威から解放された事を心底喜んでいる雰囲気が非常に明快に伝わる。
「アランよ、欲しいものがあれば何でも申して見よ。今の我に出来る事なら、どんな望みも叶えよう」
王は最後に望みの褒美を与える事を約束して話を終わらせた。
「……!!」
アランは王の提案を聞いて一瞬言葉を詰まらせた。あるよこしまな考えが頭をよぎったものの、とてもそんな事は出来る訳がないと考え直して、慌てて打ち消す。
「欲しいものなど……特にございませぬ」
今の自分に欲しいものなど無いと王の提案を断る。
「おお、勇者アラン! 欲の無い者よ!!」
一連のやり取りを聞いていた兵士達が思わず歓声を上げた。世界を救う偉業を成し遂げた勇者が見返りを求めなかった事に、なんて清廉潔白な人物なんだろうと深く感動する。
大きな力を持つ者なら、美女をはべらせて、大国の王となり、悪政を働いたとしても不思議ではない。それをしない勇者を真に気高き者だと感嘆する。
「フム……そなたの気持ちは分かった。だが本当に何も褒美を与えぬのでは、余の気が済まぬ。せめて一生食うに困らぬ額の金くらいは贈らせてもらいたい。余の気持ちがそうさせたいのだ。どうかこれだけは辞退してくれるな」
王は若干不満そうな顔をすると、勇者の意思を尊重するとしながらも、金だけは贈りたい旨を伝える。感謝の気持ちをモノで表さないと、居ても立ってもいられない様子だ。
「はっ! 陛下のご厚意に感謝いたします!!」
アランは王の厚意に甘える意思を伝えると、深々と頭を下げた。




