extra 8
続きです。
よろしくお願いします。
10月も半ばを過ぎた月曜日の朝、私はジャケットとブラウス、タイトなスカートに身を包み、いつものようにオフィスを堂々と歩きながらすれ違う人と挨拶を交わし、すでに席に着いている課の連中ともおはようと挨拶をしてその横を通って自分の席に向かった。
彼女達の横を通り過ぎる時に、えっ、とかあれっとかいう声が聞こえたけれど私はそれを特に気にすることもなく席に着いて、仕事の準備をしながらいつもの朝のミーティングに必要な資料の中身を確認していた。それでも何やら落ち着かない様子でひそひそと小声で話をし始めた彼女達をさすがに気にしないでいることは出来なかった。
「みんな朝から落ち着かないわね。市川、何かトラブルでもあったの?」
「いえ。トラブルはありません。ですが、朝から信じられない事が起こっているのは確かです」
私の斜め右側の席にいる市川がそう言った。それに反応して斜め左側の中村だけでなく課の全員か大きく頷いていた。
「信じられないこと?それはトラブルではないのね?」
「はい。トラブルではありません」
「ならいいわ。じゃ、ミーティング行ってくるから、何かあったら呼んでね」
ちらっと時計を見て、私はそう言って席を立った。
市川が信じられないことが起きたと言った時、課の連中もうんうんと頷いていた。今も彼女達は私の背後でざわざわとしている。はてさて何があったのだろうと思いながら、私はミーティングルームへと向かった。
彼女達が騒ついていた理由は凡そ20分後に判明した。
なるほどもうバレれたのかと私がそう思ったのは、ミーティングが終わり参加した皆が席へ戻ろうとしたところを、部長が羽田課長は残ってねと私を呼び止めて部屋に二人だけになった時だった。
「おめでとう、でいいのかしら?」
「えっ。ああ、コレのことですか」
私が踵を返して部長の側まで行くと、部長はそう声を掛けて来た。その問いに一瞬何のことかと戸惑ったけれど、直ぐに何を言っているのか思い当たったので、私は左手の甲を部長に向けて薬指にはめている指輪を指した。
いつものようにと言ったけれど私にはひとつだけ違う所があった。それは私の薬指にはまっている指輪の存在だ。エンゲージリングということにして私と響子さんで選んだお揃いの指輪が、一昨日から私の薬指にはまっている。
左右の薬指とか中指とか、カップルそれぞれで違いはあるけれど、その想いはみんな同じなのだ。私たちは左手の薬指。私たちにはそれがベストだった。他の選択肢はあり得なかった。心情的にも、それに都合も。
土曜日の午後、ご用意出来ましたと連絡を受けた私たちは、お店までダッシュで行って指輪の確認もお座なりにして急いでそれを包んで貰った。
響子さんがその箱の入った袋を受け取ると、私たちはまさに脱兎のごとく、再びダッシュで響子さんの部屋へと帰った。
部屋に戻るとそのままリビングに向かい、ラグの敷いてある床に私たちは向かい合って正座をした。なんでかよく分からないけれど、たぶんふたりとも自然と居住まいを正す気持ちがあったんだと思う。今からすることは、私たちにとって大切な儀式なのだから。
それから響子さんが私たちの前に箱を置き、すぅはぁと一呼吸入れた後、よし、じゃあ開けるからねと言ってそれを手に取った。
その言葉に神妙な顔をして頷いた私も、実は開けたいなと思ったけれど、そこは響子さんにお任せをして、響子さんが箱を開けるのを固唾を飲んで見守っていた。
そうして現れたふたつ並んだお揃いの指輪を、私たちはお互いの顔をくっつけるようにして覗き込んで、少しの間じっと見つめていた。
「麻衣子。さ、手を出して」
「はい」
私は緊張しながら左手を響子さんの前に差し出した。その私の手を取って、先ずは響子さんがずっと私の傍に居てね、愛してると言って私の薬指に指輪を通してくれた。それだけで既に泣きそうになっていた私は、続いてもう片方の指輪を恐る恐る指でつまみ上げ、響子さんの手を取ってその薬指に指輪をはめながら、あいじでいまずぎょうぢゃん、わだぢだぢずっどいっじょにいよねと言ってしまった。
私たちの一生に一度の大切な瞬間を台無しにしちゃったかなと申し訳なく思ってチラッと様子を窺うと、響子さんはあははと笑って麻衣子らしいねと頭を撫でてくれてから、自分の顔の近くに上げた左手の甲を私に向けて、どうかしら?とにっこりと微笑んだ。その凄く幸せそうな響子さんの顔を絶対に忘れないようにと、滲む目でしっかりと私の心に焼き付けながら私も同じ様にしてお互いに指輪をはめた手を見せ合った。
その幸せ過ぎる光景に、私は溜めていた涙を零しながら響子さんに微笑んで見せたけれど、私が微笑みを向けた響子さんも、にこりと微笑みながら薄っすら目に涙を浮かべていることに気が付いて、私は胸がいっぱいになって響子さんの胸に飛び込んだ。響子さんは私を優しく受け止めてくれて、それから暫く静かに嗚咽を漏らしながらぎゅっと私を抱き締めてくれていた。
私はと言えば、まぁ、お分かりになるとは思いますけれど、当然響子さんの胸でわんわんと号泣していた。
だって、私たちにとって凄く幸せな瞬間だったのだから、そのくらいは仕方のないことでしょう?
「てへへ」
「羽田ちゃん?」
その幸せな出来事に続いて、私たちが以前より話し合っていた私たちにとって重要な案件である、私がこの部屋に引っ越してくる日にちも正式に決まった。これでお互いの親に会うという腰の引けるイベントがいよいよ現実味を帯びてきたけれど、そのことはひとまず脇に置いて、今はただただ嬉しいことにだけ目を向けることにした。
そうなるともうすぐふたりで暮らせるという実感が私の中に沸々と湧いてきて、嬉しさのあまりにはしゃぎたくなってしまったので、私はそれに響子さんを巻き込んでやった。
私たちはふたり一緒になって、手足をばたばたさせたり、くぅぅぅと両手を握ったり、響子さんと抱き合って小躍りしたりと、全力で喜びを表していた。
こうして喜びを爆発させた後、私とそれに巻き込まれた響子さんはぜぃぜぃはぁはぁとふたり並んで床に転がっていた。そのことがなんだかとても可笑しくて、私たちは息が苦しいにもかかわらず転がったまま顔を見合わせて笑い合った。絶対に貴女を離さないからねと、お互いの手をしっかりと握りながら。
「うへへ」
「ちょっと羽田ちゃんてば」
ああ、それにしてもその夜の響子さんは凄かったわね。燃えに燃えてあんな事やこんな、っていやいやなにやってるのよ私。今はこんな回想している場合じゃないでしょうに。
呼ばれる声に私はいかんいかんと微かに首を振って、目の前の部長に意識を戻した。
「おーい羽田ちゃん。大丈夫?」
「あ、はい」
「羽田ちゃんて、うへへって笑ったりするのね。うへへって」
「いえ、私はそんな風に笑ったりしませんよ。ソレは空耳ですね。部長、それよりコレのことですよね」
からかう感じの部長に対して凄く今更な気はしたけれど、私はきりっ顔を引き締め直し、そんなことは無かったかのようにかざしたままの左手の薬指をもう一度指差した。無駄だったけれど。
「うへへ。まぁいいわ。それで、いきなり結婚したのでなければ、それ婚約指輪なのよね?石も何も付いてないみたいだけど」
「ええ。でも部長。将来を誓い合ったというだけで結婚は未定だし、するにしてもきっとかなり先の話ですから」
「そうなの?まぁ本人達の自由だと思うからそれはいいんだけど……うふふ、ねぇ?」
部長は私を微笑んで見ている。その表情は何か面白い事を見つけたような感じで、どこか楽しそうに見えた。
「何かありましたっけ?」
「大島さんがさ、あなたに良い人を世話をするとか何とか言っていたでしょう?あれ、本気みたいなのよねぇ」
「えー。あの人まだそんなことを言ってるんですか?その話はとっくに終わったと思ってましたよ」
「甘いわね。あなたが悉く断るから、あの人、かなり意地になってるわよ」
「いや。また紹介してやると言われても、今はもうコレですから」
私は更にもう一度指輪を指して、そう言えばそんなことあったなと思い出した。
お前の旦那は俺が見つけると言った大島取締役にお偉いさんの社交場やパーティーに何度か連れて行かれたことがあった。その度にどこかの若手の有望株だからと紹介されて、かれこれ十人以上と顔を合わせて話をしたけれど、半分お見合いのような意味を持っていたソレを、私は当然全てお断りしていた。大島取締役はそんな私の態度を面白がって、お前の相手を絶対に見つけてくるからなと楽しそうに笑っていた。
最近は弾切れなのかすっかり大人しくなっていたので、そんなことは私の頭から完全に抜け落ちていた。
「ふふ。大島さんも楽しみがひとつなくなって残念ね。あなたのことが耳に入ったらとても悔しがりそうだし、その時はご飯にでも誘って二人で慰めてあげようか」
「あはは。良いですね。そうましょう」
「大島さんの悔しがる顔が楽しみね」
「盛大に笑ってあげますか。ふふふ」
「違うでしょ。慰めるのよ。ふふふふふ」
私達がひと笑いした後に部長が緩んだ雰囲気を引っ込めて私をじっと見つめてきた。私はそれを平然として受け止めて部長を見つめ返した。この後に何を言われるのか、私はちゃんと分かっていた。
「それで確認だけど羽田課長、あなた結婚しても辞めないわよね?」
「もちろんです。いつも言っているように私は定年まで働きますよ。それは絶対です」
「そう。ならいいわ。あなたにはいずれ私の椅子に座って貰うんだから、辞めては駄目よ」
部長は頬を緩めて私にそう言ってくれた。部長はこんな風に私に目を掛けてくれているのだ。私はそれをとても有り難く思っている。
「はい。いつも気に掛けてくれてありがとうございます」
「いいのいいの。とにかく婚約おめでとう。羽田ちゃんが辞めないと言うならそれでいいの。引き止めて悪かったわね」
「いえ、私の方こそ心配させてしまってすいませんでした。では失礼します」
私の思った通り部長の本題は、支倉常務のラインに乗っていて、しかも特に目を掛けている私が婚約もしくは結婚を機に辞めてしまわないことを確認することだった。
けれど私に辞めるつもりなどまったく無い。男性に頼る気が無いと言うか頼れないと言うか、それはどちらでもいいけれど、そう言った意味でも私は経済的に自立していなければならないからだ。それはとても重要なことだと私は思っているし、後々のことを考えればそれは尚更のことだ。だから私は絶対に辞めたりはしない。
それでも今の私には響子さんという大切な恋人、パートナーがいて、私はこの先の人生を孤独に生きていかずに済む。それが私にとってどれだけ心強いことかと改めてそう思う。
私は響子さんを思い浮かべてそっと薬指の指輪を撫でた。
いやそれにしてもこの指輪をしていることをもう気付かれてしまうとは驚いた。隠すつもりは無いからそれは全然構わないんだけれど。
私たちは指輪を隠さないことに決めた。だからそうすることで起こり得ることにどう対処するべきかを話し合っていた。
その際に響子さんが女性はこういうことには特に敏感なのよと言って、私もそう思うよ、怖いよねというような話もしていたけれど、今がまさにその状況で、出社して早々に指輪をはめていることに気付かれるとは本当に女性は女性をよく見ているなと感心してしまう。早速指輪に気付いた部長に響子さんと考えた設定に添って答えてみたら何のことはなかったので、私は予定通り誰に聞かれても取り敢えずこの設定で話すことにした。
私が席に戻ってからちらちらと私を窺う彼女達の視線がいい加減鬱陶しい。いつもずかずかと踏み込んでくる中村でさえも、一体何を気にしているのか、私に話しかけることもなく視線を送ってくるだけだった。
少々イラついてきた私は課の全員にメールを送ることにした。
件名。ミーティング。指輪について。
本日12時40分開始です。部屋はBを使います。参加する人はそれまでに各自昼食を取っておいてください。そこで質問を受け付けます。なお、参加は自由ですが今日のお昼休み当番の人は参加を認めません。
メールを送ると斜め左の方から、ぐぬぬと怨嗟の声が聞こえて来た。どうやら今日の当番は中村のようだった。
私が可哀想に残念だったわねと、こっそり中村を笑う間もまったく無く、直ぐに複数のメールが送信されてきた。それは中村を除く全員からのメールだった。
「速っ」
こうした普段ならあり得ない異常な程のレスポンスの良さや全員が参加すると送ってくるあたりに、何かこう、少し怖いものを感じるけれど、これでちらちらと物言いたげに見られないで済むならそれでいいかと思って、私は頭を切り替えて仕事に没頭していった。
後ほど後1話上げます。
読んでくれてありがとうございます。
うへへ




