8.9
はー、と長く息をつく。膝に顔を埋めて目を閉じる。
テスト明けで眠いわけではなかった。
いつもより勉強には余裕もあったし多分出来もいいだろう。
でもなぜかあまりその事が嬉しくなかった。決して嫌なわけではないけれど
「こんな所でなにしてんの、非常階段なんて」
カンカンと上の方から足音がして、何者かが私の隣に腰を下ろした。
島崎ちゃん、と彼は私の名前を呼ぶ。
「帰らないの」
うん、と篠原に答えてぼんやり塗装のはげた階段の手すり越しに空中を見る。まだ青空がそこにあって、程よい温度の風が横顔を掠めた。
他に人はいないようで、静かで居心地がいい。そもそももう放課後だから学内にいる生徒もあまりいないだろう。
「篠原にはどこにいても見つけられるね」
「そりゃあ、いつも君を気にしてるから」
篠原のそういうノリにも大分慣れた。
そんな事を私に言って何が楽しいのか。
「またそんなこと言って」
「本当だって。なんで信じてくれないかなー」
傷付くなぁと間の抜けた声を上げるのに、はは、と軽い笑いが出た。
私さぁ、と切り出してからちょっと迷って「これはただの独り言なんだけど」と一応前置きをする。篠原は何も答えずそのまま黙ったままだった。
「この非常階段で春樹に会った、高校で初めてまともに再会したんだ」
近道しようとして春樹が女子に告白されているのに遭遇して、動揺のあまり階段から落ちそうになって春樹に助けられたんだった。そのせいで春樹と付き合うことになってしまったんだけど。
篠原がここまで来る前、ずっと今までのことを思い出していた。
今までって言っても高校に入学してからのたった半年にも満たない時間のこと。
とにかく春樹が怖くて、分からなくて、ひたすら振り回されていた気がする。
「ここにあの時こなければってずっと思ってた」
この非常階段を通ってなければ、春樹がこの場所で告白されてなければ、すぐに気付いて引き返していれば、と何回も考えた。そうすれば私は何にも脅かされない平和な高校生活を送れたのにという後悔。
「でも、今思うと違うのかもしれない。結局違う形で春樹とは会った気がする。春樹が、っていうより多分私が、会いたかったのかもしれない」
なんだかんだ言い訳してたけれど、春樹にもう一度会えて嬉しかったのは事実だったのだから。
怖かった、春樹に見つかるのが怖かった。怖いと思うのが当たり前の反応だと思っていた。だけど現実は、その恐怖もそんなに単純なものではなかった。
嘘の恋人関係になるのも本当はいくらでも抵抗できた。
本当に嫌なら、春樹にどんなに脅されても栞達に本当の事を言えば良かった。親に相談してもいい。もっというなら転校する選択肢もあった。
でも私はしなかった。嫌だ、助けて、最悪だとか言いながら春樹の傍を離れていかなかった。
つまり最初からそういうことだったんだ。
私は春樹だったから、無体な扱いでも甘んじて受けていたんだ。
「馬鹿みたいだなぁ」
どうして他人どころかわざわざ自分に嘘を言い続けてごまかしたりしてたんだろうな。
予感がした。
こうなることをどこか分かっていた。
避けられない未来だというのも知っていたんだ。
「前に春樹の代わりを言ったよね。春樹と同じくらいかそれよりも好きになれる人を作ればいいって」
そうすれば春樹を本当に離してあげられて、しかも私も楽になれると篠原が言っていた。
そしてそれは本当のことだと思う。
「分かったんだ、それは無理。どんなに探してもそんな人いない、いるはずない」
絶対に、と断言できる。
だってこんなに強烈に好きだって、こんなにも心の底から求めて止まない人は二人といない。
自分が一緒にいなくても幸せになってほしいと思う人などこれ以上居られたら堪らない。
恋だとか愛だとか、そういう呼び名が安っぽく聞こえるほどのこの気持ちをなどこの先二度と手に出来ない。
分かってしまったのだ。
井澤さんの話を聞いていて。
ある意味での本当の自分の気持ちに今更。
「だから尚更頑張る。春樹の邪魔にならないようにする」
私が春樹にできる最大限のこと、半ば役目のような。
近寄らないこと、干渉しないこと、触れないこと、その目に映らないこと。
それを生きてる限り続けていく。
「…そう」
隣から聞こえたのはそんな相槌。
前置きの通りまさに独り言で、おそらく聞いてても私以外には何のことを言っているのかよく分からなかっただろうに。
言っていることが支離滅裂なのも、指摘でもしたり茶化したりしそうなものなのにそれ以上篠原は何も言わなかった。
「…なんちゃって」
てへ、とふざけながら振り返ってみれば篠原は困ったようにも見える微笑を浮かべていた。
それでいいんだよ、といつものように無責任な言葉も篠原は何も言わなかった。
なんだか空気が変なものを纏いはじめて来たのを感じて、立ち上がった。
「そろそろ、学校も守衛さん鍵閉めるかもしれないし帰ろっか」
話題を変えるのがわざとらしかったかもしれないが、嘘は言ってない。午前中授業だったから学校の警備員のおじさんが施錠してまわる時間があながち迫ってなくも無い。ましてやここは本当は基本的に立ち入り禁止の場所なのだ。こんな風にいるのを見られたら怒られるかもしれない。
「テストも終わったことだし、どっか遊びにでも行く?」
隣の篠原の提案に、いいねと答えた。
メンバーは二人だけでちょっと寂しいけど。
「カラオケとかゲーセンとか、今からだと混んでるかな」
こういう時は他の人も同じようなことを考えてるものだ。
特にカラオケはこの辺で一軒しかないから、何時間待ちになるだろうか。
「残念だなぁ、僕結構上手いから聞かせられなくて」
「え、篠原絶対声量ないでしょ。なんか声ふわふわしてるし」
「…よし、わかった。今から予約する、そこまで言われて黙ってられない」
何故かムキになった篠原が制服のポケットからスマホを取り出した。
「いやぁ、ごめんごめん。多分私よりは上手いよ」
全然フォローになってないんだけど、と篠原にじと目で言われた。その言い様もひどくないか。
本当に電話をしている篠原に、意外と負けず嫌いだなぁと笑いながら少し先を歩いていると先に人影が見えた。
生徒玄関も目前。つい足を止めてしまう。
「…あ」
まず最初に見えたのは長い髪の女子、ナイロン地のニーハイを履いてる。
この距離で背恰好を見ただけで分かったほどよく知った子。
彼女は須藤凛。同じクラスの女子。
彼女は誰かに話しかけているように見える、その誰かの隣にいるのは小柄な女子。
小さな可愛らしい指で誰かの制服の端を掴んでいる。
隣のクラスだけど彼女の事も良く知っている。
彼女達に挟まれて誰かはその話を聞いていたようだったが、急に顔を上げて前を見たものだから目が合った。
そのまま私も誰かも視線を外さない。私の方はただ動けなくなっているだけなのだけど。
肩に何かが乗る。篠原の手だ。お店の予約はもう終わったのだろうか。
篠原が大丈夫と耳元で聞いた。その言葉にただ頷く。本当に自分が大丈夫なのかは実のところあまり分かっていない。
ふと目に入る誰かの泣きだしそうな顔。それでも何も言わず此方にも来ないのは私が近寄らないでといったからなのだろうか。
「島崎?」
異変に気付いた須藤が振り返る。
てっきり私の姿を確認しても反応しないのかと思っていたのに。
それは嬉しいことのはずなのに、ちらりと過ぎる嫌な予感。
「丁度良かった、来て」
何が丁度良い?
須藤は私の方まで来るとそのまま私の腕を掴む。
引きずられそうになるのを足で踏ん張って耐える。
「や、ちょっと、須藤?」
「そうだよ、須藤さん。島崎ちゃんこんな嫌がってるじゃない。いくら友達だからって乱暴すぎるよ」
篠原が須藤を止めてくれてやっと引っ張られる力が緩んだ。
安心したのもつかの間、須藤は少しも怯んだ様子もなく篠原を睨んだ。
「すっこんどきなさいよ、部外者は」
言い捨てて、怯んだ篠原の腕を払いのけてもう一度私を掴んだ。
「…島崎も、このままでいいなんて思ってんの。そんな訳ないでしょ」
「やめて…須藤、私は」
引きずられて春樹の前に押しやられる。
必死に後ろに下がろうとするのに、後ろの須藤にぐいぐい押されて逃げられない。
目の前の誰か視線が集中している気がして、顔を背ける。
「離してって」
「何で言えないの、私達に言ったことをそのまま春樹君に言えばいいだけよ」
どんなに抵抗しても呼びかけても一向に須藤は許してくれない。
「言ってない、私は何も」
嫌だ。言えるわけがない。あんなことを。
言ってしまえば全て終わりだ。
今までの事、なにもかも。それは即ち破滅だ。
「何も言ってない」
どうしたって認めるわけにはいかない。絶対に話す訳にはいかない。
「またそれ?そうやってしらばっくれて逃げるつもりなの」
私の手首を掴んだのは井澤さん。
どうして。だって分かってくれたんじゃないのか。
「そんなのさせない。真琴にはちゃんと立ち向かってもらう」
出来ない、そんなことは。
そんなことをする意味もない。
真っ直ぐな視線を受け止められず、適当な所に彷徨わせてしまう。
「そんな寄ってたかって何島崎ちゃんをいじめてるの」
篠原が私と井澤さんの間に入って助け船を出してくれた。
「なにがあったか知らないけど、島崎ちゃんに心当たりはないんでしょ」
聞かれた言葉に頷く。
嘘を言っても良心など痛まない。そんなことより、今は大事なものがある。
なら、と篠原は背筋を伸ばした。
「ただの言いがかりだね、それは頂けないなぁ。というか、これから用事があって悪いけどあんまり付き合ってられないんだ。ということで彼女を離してもらえる?」
井澤さんの手を振り解いた後あざやかな動作で私の肩を抱いて、その場から私を引き抜いてくれた。ほっとした。篠原がいてくれてよかった。
そのまま逃げられる、そう思ったのだ。
だが、私の腕は引っ張られる。
その先にあるのは誰かの手、井澤さんとは比べ物にならない強い力で私の手首を握り締めている。握り締めているというより助けを求めているような。
春樹の手が。
「行かないでくれ、どこにも」
やっと口を開いた春樹が吐き出したのは、何度も聞いた言葉だった。
それは私が一番聞きたくない一言。
「お前がいないと生きていけない。真琴がいなきゃ駄目だ、何もかも」
その姿があの小さな男の子と重なる。
夕暮れ時、さようならも言わず手を引いたその子と同じ表情。
誰よりも愛情に飢えていてるのに素直に表に出せない、意志の強そうな顔をして瞳の奥はいつでも寂しさに揺れている男の子。
「離して」
大切なのだ、春樹が。だからこそ私はその手を離さなければ。
振り払おうとしてがむしゃらに腕を振っても解けなくて焦れる。
「嫌だ」
もう一度自分の方に引っ張った腕が逆に春樹の方に引き寄せられる。うっかり重心が崩れてそのまま倒れこみそうになったのを篠原に肩を引いて戻された。
「しつこいよね、いい加減君も。どんな顔してそんなことが言えるの。自分が島崎ちゃんにしたこと覚えてる?そんな仕打ちをしておいて許してもらえるとか調子のいいことを本気で思ってるわけ」
死ねばいいよ、とどこか楽しそうに篠原が言う。
「島崎ちゃんがいないと生きていけないっていうなら、そのまま死ねばいい。島崎ちゃんは優しいからそこまで言えば断られたりしないだろうって考えなんだろうけど僕がさせないよ、そんな事。
大体、この前だけじゃなく今まで島崎ちゃんにしていたこと全部思い返してみなよ。
何回彼女が止めてって言ったことをした?
いつだって自分ばっかりで島崎ちゃんの事なんて考えもしなかったような人間に手を差し伸べてやれると思う?
いくら島崎ちゃんでも無理だね。現に近寄らないでって言ってる。これ以上島崎ちゃんに張り付くようならこっちにだって考えがあるんだけど」
「し、篠原…」
篠原は私が春樹に襲われかけた画像を持っている。消してと言ったはずだったがこの口ぶりだとまだ持っているんだろう。今度も篠原が私のいう事を聞く保障はない。前回だって結構渋っていた、冗談ではなく本当にやりかねない。
「はやく手、離して」
頼むから、じゃないと取り返しのつかないことになる。
そんな事態を招きたい訳じゃないのだ。
なのに春樹は動いてくれない。無言で私の手を掴んだまま、力の緩まる気配がない。
「春樹!」
もう片方の手で春樹から抜けだそうとするのにびくともしない。
いつ篠原が見切りをつけるか怖い。取り返しのつかないことになろうとしているのに、肝心の春樹自身が分かってくれない。
「ねぇ、新垣君ほんとに話聞いてる?島崎ちゃんにもう近寄らないでって言ってるんだけど」
動こうとしない春樹を挑発するように、篠原が春樹の顔を見上げて覗き込んだ。
それにも春樹は何も喋らない、表情も変えない。
「それともまだ望みがあるとか思っちゃってんの。この二人が言ってる事を本気にしてる?それでも島崎ちゃんが君の事を好きだとかそういう希望でも持ったりした?だとしたらほんと惨めだよね、証拠も確証もないものにしか縋るしかないなんて。彼女自身がこんなに否定してるんだよ、望みなんてあるわけない」
いい加減諦めなよ、と低く笑った。
一方私ははらはらするばかりだった。篠原が言っている嘘が見破られないことを祈っていた。篠原が言っていることを素直に春樹が受け止めてくれたらいい。
聞いていた感じ、矛盾はないように思えた。
事実を知らない春樹が疑う要素はない。後は、どうかこのまま春樹が手を離してくれることを願うばかりだ。
「証拠ならあるけど」
ふいに春樹の後ろから声がした。
そうして彼女は私と春樹の間まで歩いてくる。
妙に余裕めいた態度に胸がざわつく。
「島崎、これに見覚えない?」
須藤が掲げたメタリックなフォルムの機械。
そう、見覚えがあった。確か篠原が持っていた。確かあれは、夏休み前の事件の時。
――――これ結構性能いいんだよ。遠くの音で録ったとかはっきり聞こえるし。
あの時、篠原が言った言葉が急に脳内で蘇る。
なんでなんでなんで。
どうしてそれを須藤が持っている。
私は、どうしてそうされている可能性も考えないで喋ってしまった。
「須藤っ!」
血の気が引いていく。須藤の手からそれを奪おうと身を乗り出すが春樹に手を掴まれているのを思い出す。
「あ…あ、止めて…お願いだから…」
その中に何が入っているのかなんて分かる。
最悪だ。そんなの一番駄目だ。
もう誤魔化しようがない。自分の間抜けさに何もかも後悔する。
自由な方の手で須藤の方に手を伸ばした私に、ふっと須藤が笑みを零した。
「恨まないでよ、私より篠原を信用した島崎が悪い」
その言葉が死刑宣告のように、ザーと細かいノイズ音が再生される。
あの時の一部始終。
やがて紛れも無い私の声も聞こえ出した。
どこか他人が喋っているようで気持ちが悪い。
にもかかわらず、その他人は見透かしたように私の隠しておきたかったものを全部吐き出していた。
春樹には絶対知られたくなかったものを、饒舌に語っていてた。
黙れ、とそいつを怒鳴りつけたかった。
お願いだから、頼むから。
私の願いも虚しく春樹に全て曝け出した後ひどく機械的に音声が途切れた。
あとは悲しいくらい滑稽な私が一人取り残されるばかり。
「なんだ…それ」
掠れた声が春樹の方からする。
本当、何なんだろう。
私はなんで衝動的に胸の内など晒してしまったのだろう。
あんなに警戒していたはずなのに。
「意味が、分からない。なにを言ってるか全然…。だって、そんな理由で?そんなもののせいで、別れた…?」
ふざけるなよ、と春樹が吐き捨てる。徐々に明確に大きくなっていく春樹の声。怒りが強く滲んでいつかと同じように震えていた。
その顔が見れなくてただ自分の足元を見ていた。
「やっぱり下らない事だった。馬鹿だろ、的外れにも程がある。そんなことをしてくれと誰が言ったんだよ!」
びりびりと鼓膜が震える。
竦みあがりそうになるのをどうにか耐えた。
「言ったか?俺の未来のために身を引いてくれなんて言った事があったか。お前の存在が邪魔だって言ったか。言ったと思うんなら、どこでそんな勘違いした?訂正してやるから言ってみろ、全部」
詰め寄られて口を開くしかない。
だが、言葉がうかばず悪戯に口をもごもご動かすだけ。
「わ…私は」
私の決断は間違ってなかったと思うからこそ、このまま流されたくなんかなかった。
どう言葉を尽くせば春樹に分かってもらえる。
「春樹の、ためなのに」
みっともなく体を震わせてしまう自分が情けなかった。迷った末にそんな単純な言葉しか出てこないのも。
頭の中が真っ白で、うまく言葉が出てこない。
「春樹は自分の価値を…分かってない」
「分かってる」
分かってないって、と自分でもなんでそこまでと思うほどに大きな声で返してしまった。
「分かってたら、私と付き合ってたりしない。嫌なんだって、私のせいで春樹が損してるのは。春樹は幸せにならなきゃだめだ。私にこだわるのも本当に私を好きな訳じゃない。ただ依存してるだけだ。そんな存在、春樹には邪魔以外の何物でもない」
喋れば喋るほど酸素を失って苦しい。
喉に何かが詰まっているような感じがして、吐き出そうとしたらそれは嗚咽だった。
いつのまにか視界がぐにゃぐにゃにひしゃげている。
「…それで全部か?」
ぐい、と顎を持ち上げられて顔を晒される。溜まった涙の粒がぼろぼろ零れていった。
大したことでもないように言われたのが悔しかったが、これ以上言葉が思い浮かばない。
「真琴が一から十まで言わなきゃ分かってくれないバカだってことがよく分かった。後、放っておくと下らない事ばっかり考える」
「ひどっ、私は…!」
酷いのはお前だ、と春樹が私の言葉を遮った。
「真琴がいなきゃ駄目だってさっきも言った。どうしてそれを信じない。俺は真琴以外何にもいらない。お前がいなきゃ生きる価値も見出せない。他の誰が周りにいようと、お前のいう幸せは真琴無しじゃ絶対実現しない」
淀みなく言い放って、春樹は一度軽く息を吐いた。
そしてまた私を視線で射抜きながら話を続ける。
「依存といえばそうだ、だけどそれの何が悪い。好きだって言葉が生ぬるいほど真琴が欲しい、そればっかりは間違ってるって言われても直せない。
面白くも無い空っぽでどうしようもない男だ、それが俺の価値。真琴が傍にいないなら無意味なだけ」
そんなことない、と首を振る私に「あるんだよ」と春樹が答えた。
そんな悲しいことを春樹に言わせたくなかった。
春樹は望めばなんでも手に入る力がある。なんだって出来る可能性がある。決して面白くないわけでも空っぽでもない。ましてや無意味なわけがない。
「そんな俺でも好きだって思うんなら、勝手に想像する幸せを押し付ける以外にすることがあるんじゃないのか」
幾分穏やかになった口調でそう言って、春樹は私の顔から手を離した。私の手も解放して、両方の掌を私の前に向けた。
戻って来い、とでも言うように。
「…私は春樹に相応しくない。なんも出来ないし、地味だし、頭もよくない。私が春樹のためにできることなんて一つもないよ」
「だとしても俺はそういうお前といたい。第一、相応しいとか誰が決めることでもないだろ」
下らない、と息を吐いて春樹はもう一度私を見据える。
「俺のためとか、他人がどう見るかとか、そういうのに逃げるなよ。真琴はどうしたいんだ、俺とどうなりたい。それだけ考えればいい」
また、よく分からない涙が頬を伝った。私は一体悲しいのか嬉しいのか。
いつからこんなに泣き虫になってしまったのか。
制服の袖でごしごしと顔を拭った。固い生地が瞼に擦れて痛い。
他のものは何も気にしなくていいのなら。
本当にそうなら。
そんなことが許されるなら。
「真琴、ほら」
私が取るべき行動はたった一つ。
「春樹が好き」
踏み出したのたたった一歩にも満たない距離だった。
そうすれば痛いほど強く抱きしめてくれた。




