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8.8

「島崎ちゃん、本当にいいの」


隣の篠原の声に、うん、と答える。

放課後、図書館帰りの生徒玄関。日も沈みかけたなか篠原がいつになく真面目な声をあげた。

投げた置いた外靴がタイルに当たって乾いた音を立てる。


「春樹の事は何もしなくていい。あの写真も消して」


人気の無い生徒玄関に私達の声だけ響いている。

私は靴を履いたが、篠原の方は私の後ろで立ち止まっているだけだった。見上げれば柄に無く難しい表情で私をみていた。


「甘すぎる。未遂とはいえあんなの普通に犯罪だよ、本当に怖かっただろうに。僕はどうにでもしたっていいんだよ。また同じことをしないとも限らないし、優しさを履き違えるのも大概にした方がいい」


「こんなの優しさじゃない」


何もしないのは優しさからくる対応じゃない。

勇気がないだけだ。春樹を陥れる勇気がないだけ。

春樹に傷を入れることが私にはできない、どうしても。

島崎ちゃん、と篠原がまた声を上げたのを今度は無視して私は玄関を出た。

何と言われようと私の意志は変わらない。


「新垣君がまだ好きだから許すんじゃないの。実はそこまで嫌じゃなかったとか」


歩き出した私に篠原は追いついた。

そしてそんな言葉を吐く。


「なにしょうもないこと言ってるの」


その言い様に苛々して足を止めば篠原も立ち止まる。

睨みつけても私の顔など大して怖くないだろうに、篠原は神妙な顔をしたまま私を見下ろした。そして嗜めたのにも関わらず性懲りも無く再び口を開く。


「でも、好きなんでしょう。本当は」


「違う」


篠原は私に何を言わせたい。

私が春樹を好きだと認めさせたいのか。それでどうしようっていうのか。

第一もう春樹を好きだった私は殺してしまったのだ。だから、もう私には好きな人なんかいない。


「全部新垣君のため。新垣君のために別れて、どんなことをされても新垣君の経歴を傷つけないように耐えて、そうやって自分を犠牲にしていって悦に入ってるんでしょう、君は」


「違うって、私は…」


否定してもそれを遮ってまで篠原は喋り続ける。

耳を塞ぎたくなるようなことばかりの内容の言葉を。


「何がそんなに大事?僕には分からない。幼馴染だったから?虐待されてたから?でもそれがどうしたの。それだけでなんで島崎ちゃんがそこまでしなきゃいけないの」


普通あそこまでされてそれでも好きだから許すなんて間違ってる。

篠原の履き捨てた言葉が固い地面で弾けて飛び散る。

その飛沫が私の顔にべちゃりと張り付く。

視界はすっかりいつか見た鈍い赤色。それから鼻に付く鉄の匂い。


「本当にさ、そういうの止めた方がいいよ。付け込まれるだけじゃん、それで島崎ちゃんぼろぼろになっちゃうよ」


間違ってる、と篠原はもう一度言った。

私も自分が正しいとは思っていない。


「はやく乗り換えた方がいい。新垣君を忘れてしまいなよ、もっと君を大事にしてくれる誰かを見つけなよ。何なら僕がなってもいい、このまま本当に付き合おうか。前にも言ったと思うけど、それも新垣君の為だし。君が新垣君を忘れてそれ以上の誰かを見つければ彼もその分自由になるし。そうしよう、ねぇ、島崎ちゃん」


冗談のつもりでそんな事を言っているのだろうか。

しかし珍しくその口元は少しも笑ってはいない。

もし本気で言っているのなら、その話に応じようと思った。

もう疲れた。休みたかった、寄りかかってしまいたかった。

篠原が自分からそう言ってくれるなら申し訳ないと思わないでもないけど、有難く頼らせてもらいたい。

私は返事をしようと小さく息を吸い込んだ。



「なにそれ、今の話どういう事」



そういったのは私じゃない。

いつの間にか増えたもう一本の影。

ち、と篠原から聞こえた舌打ちの音。


「新垣のためってなに、本当に付き合うってなに」


明瞭な声が痛い。

たじろいで後ろに退ければ、それ以上に距離を詰めてくる。


「あ…」


なんで井澤さんがいる。

どうしてそんな事を言っている。

聞いていたのか、全部。


「ねぇ、何。やっぱりまだ何か隠してんじゃん」


迂闊だった。もう下校時間も過ぎていて人気もないから油断していた。

話に夢中でまともに周りを見ていなかった。

こんな時間に井澤さんがいるとは思ってなかった。いたってこんな道端で会うとは思わなかった。

朝と同じジャージ姿。汗がそのこめかみあたりに浮かび上がっていた。校門から出てきたということは外に走りに出ていたのかもしれない。


「聞いてるの、真琴!どういうことなの!」


小さい手で二の腕を力いっぱい握り締められたかとおもうと、がくんがくんと揺さぶられる。どうしよう、どうしようと思うばかりでこの状況の打開策が見つからない。


「待ちなよ」


井澤さんの手を止めたのは篠原だった。


「なにを聞き間違えしたのかしらないけど、離してくれないかな。島崎ちゃんも、ほら、困ってるし」


「なっ…聞き間違えなんかじゃない!私は確かに」


声を荒げる井澤さんに篠原は声を被せて、ちらりと私の方へ目配せした。


「でも僕達そんな話してないよね、島崎ちゃん」


「う、うん!」


苦しいごまかしだとは思う。だけど、本当に言った証拠はない。このまま言い張れば聞き間違いだったと思ってくれるかもしれない。


「あんたたち…」


「まぁ、例えそういう事の話をしていたとしても井澤さんが知ったって得にはならないことだから気にしない方がいいよ」


その言い方から、篠原は井澤さんが春樹を好きだと知っていたのだと気付いた。

篠原は春樹と上手くいきたいならこの話は聞かなかったことにしろと彼女に言ったのだ。


「じゃあ明日からテストだしそんな長居する時間もないから僕達は帰るよ。井澤さんも気を付けて帰りなよ、日が暮れるの早くなってきたし」


井澤さんの反応を待たず、篠原は私の手を取って歩き出した。振り返ることは出来ないが、もう井澤さんは何も言わなかった。

篠原のおかけでなんとか危機は脱したようである。

胸を撫で下ろし、私はこっそり息を吐いた。




否、安心するのはまだ早かったと翌日私は悟った。


「真琴、昨日言ってた話ってなんなの」


朝、私のクラスの下駄箱の前で井澤さんが待ち受けていた。

聞かなかったことに収まったんじゃなかったのか。

ひどく脱力しながら上靴に履き替えるとずいずいと井澤さんが迫ってくる。


「だからそんなこと言ってない。ごめん、少しでも教科書見ておきたいから教室行かせて」


追いすがる井澤さんを引きずってやっとのことで教室に辿り着いた。

が、他クラスであるのもお構い無しに井澤さんは相変わらず私に詰め寄る。


「無視しないでよ、何で答えてくれないの」


「だから井澤さんが想像しているような話はしてないって言ってる!」


私の方もつい大きな声をあげてしまって慌てて口を押さえた。

この無駄な粘り強さは何なんだろう。

そんなに気になることだろうか、真実なんて全部見たいと思うものなんだろうか。


「またそうやって…」


井澤さんが私に負けず劣らずの大きな声で言い返そうとしたとき、私達の間に割って入った人がいた。


「あんた、井澤だっけ。悪いけど私もあんたに用事あるんだけど。ちょっと顔貸してくれない?」


須藤だった。淡々と井澤さんに行って有無を言わせない勢いで廊下に引っ張って行ってしまった。

なんで須藤が井澤さんを?なんの話があるのだろう。二人に特に接点はないようだけど。

もしかして井澤さんが春樹の周りでうろついているから制裁を加えようとでもいうのか。

そういえば春樹と付き合い始めの頃は須藤に色々言われたのを思い出した。


「須藤、ちょっと」


「なによ」


二日ぶりに須藤と言葉を交わした。

慌てて須藤を追いかけるも、いざ目の前にするとなんて言えばいいのか困る。

そういうの止めなよとか言えばいいのか。でも本当に須藤が井澤さんに何かをすると決まったわけではないし。


「…もうすぐ先生来るから早く戻った方がいいよ。テストもあるし」


結局そんなへたれた台詞に変わってしまった。


「余計なお世話って言葉知ってる?」


むっつりと答えてそのまま井澤さんを連れてどこかに行ってしまった。

ハラハラしながら須藤が帰ってくるのを待っていたが、帰って来たのは意外にもすぐだった。春樹に気安く近付くんじゃないわよ的な忠告をちょっとしただけなのかもしれない。それだけなら別に教室でしてもよさそうなのに、と思わないでもなかった。



須藤ともう一度話したのはテストが終わってからのことだった。


「島崎、あんた」


意外にも話しかけてきたのは須藤だった。

まさか彼女から話しかけてくれるとは思ってなくて嬉しくてつい立ち上がってしまう。


「な、なに?どうしたの?どうかした?」


弾んだ声で聞けば、須藤は一言ノートと呟いた。


「え?」


「ノート、あんたに貸したやつ帰ってきてないんだけど」


不機嫌そうな顔で告げられた言葉に、あぁああと思い出した。

気絶して保健室で寝た時に須藤に借りたノートがそのままだった。だらしない話だが返すのを忘れていた。


「ごめん、あの、今すぐ家帰って取りに行ってくる」


はぁ、と須藤が呆れた様にため息をついた。

最低じゃん私。恩を仇で返すとはこのことじゃないか。なんで気まずいとか思って先延ばしにしてそのまま忘れてしまったのか。こっちの方が余計に気まずいじゃないか。


「早くしてよね、今日はいつもより勉強しなきゃいけないし」


あんたのせいで、という副音声はきっと空耳ではない。

まさに私がノートを返さなかったせいで須藤は二科目一夜漬けをするはめになってしまった。もうごめんなさいとしか言えない。


篠原を待たずに、帰りのHRが終わって私は全速力で家に帰った。それから須藤のノートを鞄に入れて自転車を飛ばして学校に戻る。

時計を見てみれば一時間経ってなかった。

学校に着いてわき目もふらずに走って自分のクラスの教室に向かった。


「須藤」


ぜえぜえ息を吐きながら彼女を呼ぶ。

明日もテストということがあってもう教室にはがらんどうで一人しか残っていない。

残って勉強しようとする人達も昼時だから何か食べに行っているのかもしれなかった。


「おまたせ、ごめんねほんと今更」


近付いて、あれ、と気付く。


「真琴」


開かれた窓から西日が入って逆行になって教室に入ったときはよく姿が見えなくて、私もそれを須藤だと疑ってなかった。

しかしそこにいたのは全くの別人。須藤ではなかった。


井澤美咲。その人だった。


「あんたにしては来るの早かったわね、島崎」


後ろを振り返れば、そこにいるのこそ須藤だった。

ふん、と鼻を鳴らして須藤は教室の戸を閉めた。


「なんで、ここに井澤さんが…」


嫌な予感がずっと頭の中をぐるぐる回っている。

それを否定して欲しくて縋るように須藤の顔を見るが、彼女は私の求めたのと反対の言葉を吐いた。


「悪いけど今回はもう逃がさないから」


嵌められた。

なんで私というやつはこうもあっさり引っかかってしまう。今日といい昨日といい。

須藤が井澤さんを呼び出した時点でなんでこの可能性を疑わなかったのか。

勘が悪い、本当嫌気がするほど私って勘が悪い。


「ちゃんと本当のことを言ってよ、昨日篠原と何の話をしてたの」


井澤さんが私の方まで歩いてくる。

後ろ歩きで距離をあけようとするがあっという間に壁まで追い詰められた。


「本当は、あんたは一体新垣をどう思ってるの。どうして篠原は新垣の為なんて言ってたの」


「だからそんな事言ってない」


「言った!この耳でちゃんと聞いた!もういい加減誰かの後ろで隠れたり嘘ついたりして逃げるのやめなよ」


井澤さんの声が教室中に響いて耳がキンとする。

こんな事まで引き下がってくれない井澤さんに苛々する。井澤さんに協力して私の逃げ道を断った須藤にも。

放っておいて。なんで構う。他人事に首を突っ込まないでほしい、私の勝手にさせてくれ。


「井澤さんは春樹が好きなんでしょ、ならそんな事聞いてもなんのメリットもないじゃん。私はもう春樹に近寄らないし関わらない、それでいいじゃない。約束するからもう帰らせてよ」


駄目、と井澤さんは決して許してくれない。

多分彼女は私がちゃんと喋るまで解放してくれない。私の死体を掘り起こすまで。


「私は新垣が好きだ。誰より、真琴より新垣のこと好きだって言える」


聞いてもないことを彼女は話し出す。


「新垣の事を何より一番に考えることもできる。どこの誰よりも新垣の傍にいたいし、好きになってもらいたい。そもそも私より真琴が新垣にふさわしいとはとてもじゃないけど思えない」


ならいいじゃないか。その通り、大正解。

井澤さんが春樹に一番お似合い、それでいい。どうぞお幸せに。

投げやりに話を聞く私を前に井澤さんは、でも、と続ける。


「新垣はあんたしか要らないって言う。どんなに私が好きだって言っても揺らいでくれない、逃げてばっかり新垣の気持ちを踏み躙るあんた以外は要らないって。そんなのってないじゃん、なんで真琴だけなの」


怒っているような、悲鳴のような、責めているようなそんな声だった。

私は目を瞑った。固く目を閉じて色々なものを耐えた。


「真琴が篠原と付き合ってからの新垣なんて見てられないよ。人前では平気そうにしているけど一人になれば抜け殻みたいになって、それでもあんたを探してるの。遠くから目で追ってるの、他の男といるあんたを。あの時もそう、前にも真琴が春樹から逃げてたときもひどかった。そんなの見たらどうにかしてやりたいって思うに決まってるじゃない。だけどそれは、本当なら私だけで助けたいのにできない」


悔しい、すごく悔しい。

独り言のように吐かれた言葉は少し震えていた。


「だから私は本当の事知りたい。真琴が本当に新垣の事をもうどうにも思ってないならどんなことをしても忘れさせてみせる。でも、そうでないなら真琴を新垣の所へ連れ戻す」


井澤さんという人を誤解していた。

どこか苦手だった。あまりに眩しすぎて真っ直ぐで私とは正反対の人だと思っていたから。

目を瞑ったまま口を開く。

全部さらけ出した井澤さんを前に、何も話してないからここから出してくれとはもう言えなかった。


「止めた方がいい。私が春樹の傍にいても春樹は幸せになんてなれないよ。私は春樹の未来を摘み取る、本当はもっと人に囲まれて才能を発揮できるのに私がそれを台無しにする。これ以上一緒にいたって春樹の邪魔にしかならない」


多分今の井澤さんなら分かってくれる。

そう信じて私は一度だけ息を吹き返してみる。


「私も井澤さんと同じなんだ。春樹が好きだってどんなに思っても、それで春樹を満たして幸せにすることなんてできない」


似ていたんだな、私達は。

だから一人の男の子を好きになったんだ。

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