8.7
「春樹君おはよう」
その声に驚いて、つい肩が上がってしまう。
下駄箱からそっと声のした方を覗けば春樹がいた。
女の子に囲まれて、爽やかな顔で挨拶を返している。紛れもなく完璧な美青年。
私と付き合う前の春樹の姿がある。
「やっぱり気になる?」
背後でクスクス笑う篠原に小声で「別に」と返事をする。
嫌な気分ではない。そもそも私はこうなって欲しかったのだ。むしろほっとしている。
私と別れたのがよかったのか、春樹の周りに人が集まっているのをよく見かけるようになった。石川さん達がいるのは今のところ見てないが、ともかく春樹のイメージがそこまで下がってなくて安心した。
やっぱり私の判断は間違ってなかった。手遅れにならなくて良かった。
本当にそう思う。
安心した、ほんと。嘘をついてる訳じゃなく。
「これでいい」
呟いた言葉に、篠原がそうだねとにっこり笑った。
これが、本来あるべき現実。
正常に戻った。春樹の人生から不純物は取り去られた。
いらないものはゴミ箱へ。昔の事ごと、島崎真琴の存在ごと全部。
そういう説明の必要もないようなこと。
私も篠原に倣って笑ってみせる。
行こう、と篠原の手を引いて教室に向かうべく廊下に出た。
春樹に見つかってももう怖くない。篠原がいてくれるおかげかもしれないけど今ならなんとでも言える気がした。
あれほど言ったのだ、縋るのも無視して私は篠原の手を取った。そんなことまでされたら春樹の方も私にはもう好意的なものを向けてはないだろう。
そして現に春樹は声をかけもしなかったし追いかてくることもなかった。
それでもう何も心配するようなことはないと思っていたのに。
階段を上がった所で篠原と別れて教室に戻ろうとした時、後ろから手を引っ張られた。
一瞬どきっとしたが、振り向けばそこにいたのは小柄な女子。
生真面目な顔で私をまっすぐ見上げている。
「井澤さん」
ジャージを着ているということは部活の朝練でもしていたのだろうか。テスト期間で休みになってるだろうに本当に熱心なことだ。
「話がある、ちょっと来てくれない?」
そんな事言われても嫌な予感しかしない。
春樹関係のことなのはまず間違いないだろう。
言うべき事は、もう全部言った。
これ以上一体何が聞きたいというのだ。
春樹が好きなのだろう。じゃあ、私のことなど気にせずに春樹だけ見てればいいのに。
「ごめん、テスト前だし忙しいから」
逃げてるわけではない。
だって話合う必要なんてない。お互い時間の無駄。
私から井澤さんに言えることなんてもうない。もう春樹には近寄らないから、なんてわざわざ言う必要もないだろうし。
「真琴!」
小さな手がしっかりと私の手首を掴んでいる。
「ほんとに何にも思ってないの?新垣があんな風に他の女子達の近くにいて何とも思わないの」
うん、と私は答える。
何とも。篠原に答えたように、別になんとも感じてない、と。
私だけ見て欲しい、なんて阿呆なことを強請った事など無かったように。
実際、ただの白昼夢だったのかもしれない。
「…私は、嫌だ。新垣が好きだから」
知ってる。そんなことは、とっくの昔に。
「本当に好きなの。初めてこんなに好きな奴ができたんだ。誰より新垣の傍にいたいし、一番理解してるのは私でありたい」
へぇ、と軽薄に相槌を打つ。素直に井澤さんは顔をしかめる。私の考えていることが理解できないみたいに。
だから、どうでもいいのだそんなことは。
どうぞご勝手に。
関係ない。私には。そんな話は。
春樹に私が要らないように、私にだって春樹は要らない。
「もうチャイム鳴るよ。井澤さんも着替えなきゃならないだろうし」
巻き込まないで。お願いだから、これ以上。
冷たい対応といえば、そうだ。だけど私にはこんな風にしか自分を守ることしかできないのだから仕方がない。悪いが井澤さんの気持ちを気遣う余裕などないのだ。
そんな気持ちを込めて言うと、何か言いたげな顔で暫く私の顔を見た後ゆっくり手を離した。
やっとのことで教室に入り自分の席に付けば、誰も私に気付いてくれる人などいない。
須藤はすでに教室にいたが頬杖をついて向こうを向いている。
胸が疼きだすのに首を振る。ぺし、と軽く甘ったれな自分の頬を叩く。
それだけのことをしたのが私だ。
須藤が怒るのも無理ないことをした。
一日経って、許してもらえるなんて都合のいいことなんて考えない。
この先、一生このままかもしれない。
だって須藤には本当のことなど言うつもりなどない。
信用してないからじゃない。
でも、須藤に言ってそれが間違っていると言われたら揺らいでしまうから。
HRは担任の先生がテスト勉強しっかりしろよと言っていただけで、自習ばっかりの授業もあっという間に終わっていく。
休み時間には女子達の話題は春樹で持ちきりになっていた。時々そこに私の名前が出てくる。最初机に突っ伏して寝た振りをしていたが、段々居た堪れなくなって立ち上がって廊下に出た。
水でも飲もうかなとふらふら歩いていると、須藤とすれ違った。
ちらりと目が合ったが須藤は一言も声を出さず、さっさと教室に戻って行ってしまった。
何とも切ない気分を味わってその後ろを見送って、ふと引っかかるものを感じて須藤が出てきた階段を見上げる。
何をしに須藤は3階に行ったんだろう。前の授業は移動教室ではなかったのに。
図書館に本でも返しに行ったのかもしれない。でも須藤はあまり本とか読むタイプではない。
よく分からないが何か用事があったんだろう。特にそんなに気にすることではないか、と思い直して水飲み場に向かった。
■■■■
「次、A組と合同だって」
次の体育の授業のため更衣室化している教室、隣の女子の話し声に「う」と声が出てしまいそうになり一人苦笑する。
Tシャツに腕を通しつつ、そんなことを前回の授業で先生が言っていたことを思い出す。
A組は春樹のいるクラスだ。
ただ女子と男子分かれての授業だから実際に春樹と鉢合わせすることはない。
少しでも意識してしまう自分にまだまだだなぁと思う。
A組の話が出て、また春樹の話になるのは目に見えていたから私はさっさとジャージを羽織って足早に教室を出た。
テスト前だからということで体育の授業すらぬるく、延々とグラウンドでドッヂボールをしていた。
早々にボールを当てられ外野に飛ばされ今に至る。目の前で繰り広げられるボールの行き交いに追いつくことも出来ず、止めとけばいいのにうっかり手を出しをしてしまって相手の陣地にボールを送ってしまい味方から舌打ちされて以来もう参加するのを諦めた。
須藤がばしばしとすごい勢いで相手からアウトを取っているのはぼうっと眺めていると、少し離れてた所から歓声が上がっているのが聞こえた。
体育館裏口、その入口に私と同じように外野に送られた女子達が集まっていた。
「春樹君頑張ってー!」
そして、きゃああと黄色い声が彼女達から上がる。
体育館では男子がバスケをしていた。
彼女達の隙間からその姿が見えた。丁度ポイントを入れた所だったからすぐに分かった。
そこに春樹がいた。
相変わらず漫画みたいに絵になる。
男子だからさすがに動きが早く、それでもディフェンスを次々と躱していく春樹は贔屓目に見ずとも格好良い。無駄のない動きはどうしたって目が奪われる。
それは騒がれるはずだ。
あっという間にまた春樹がシュートを決めてすぐ、電光掲示板にゼロの羅列が表示されて電子音が鳴り響いた。
もう一度春樹の名前が叫ばれて、腕で汗を拭う春樹がふいに此方に顔を向けた。
反射的に一瞬で身体が強張ったが、すぐに同じチームの男子に呼ばれて春樹は別の方向に振り返った。
私が見ているのに気付いたのかもしれない。でも春樹は何の関心も示した様子も見せなかった。
そうだ、それでいい。
ゆるゆると自分の頬骨が盛り上がっていくのに気付いた。
「おい、何やってる授業中だぞ」
体育の先生に怒鳴られて蜘蛛の子を散らしたように集団は解散していき私もその場を離れて、立って見てるだけの外野に戻った。
それから間もなく授業の終了と昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った。
「今日は14日…F組の出席番号14番、島崎、島崎真琴。後片付け頼む」
集合をかけた先生が出席簿を覗き込みながらそんなことを言い出した。
なんでよりによってウチのクラスから…しかもその出席番号の日にちに…と愕然とした。まさか当たるとは思ってなかったから余計にショックが大きい。
「友達に手伝ってもらってでもいいから、コーン片付けて白線消しとけよ」
それがぼっちにとってどれほど残酷な言葉か分かってないだろ、と言いたくても言えない。
そんなこと気にしてくれるはずがないのだ。
というか察してもらってもなんか恥ずかしい。
一応ちらりと須藤の方を見てみるが、私の方を一度も振り返ることなく授業終了の号令と共にさっさと行ってしまった。かといって色々嫌われている私を他に手伝ってくれる人がいるわけもなく。
結果、私はぐぅと不平を洩らすお腹を押さえながら一人で片付けをすることになった。
面倒臭いと思いつつのろのろと白線を消して、カラーコーンを重ねて器具室に運んでいく。
微妙に大きくて重くて八本は運びきれず二回に分けることにした。そしてさらに屋外器具室はグラウンドの端、ほとんど校庭じゃないのかって位置にあるプレハブだ。
我ながらとぼとぼという効果音が付きそうなほどやる気無く歩く。
九月も中旬なのに強い日差しが一層作業をしんどくさせる。
やっとのことで器具室まで辿り付いてよいしょっとコーンを隅に置いた所でため息をついた。
「お腹すいた…」
今何時くらいだろうか。昼休みはあとどれ位残っているだろうか。次の授業は選択だった、お弁当を食べる時間はあるだろうか。
早く終わらせてしまおうともう一度腰を上げた時、ドアが開いた軋んだ音がした。
そして何かが床に置かれる音。
見ればそこにあるのは置いてきたはずの残りのコーン。
それを持ってきたのが須藤や篠原だったら良かった。ただ単純に嬉しいし、感謝しただろう。
でも残念ながら違った。
「こんなの運ぶのにどれ位時間かかってんの。本当にトロいな」
真琴は、と目の前の人は綺麗な顔を歪めて嗤っていた。
なんで。
なんでここにいる。
春樹が、どうして私の前にいるのだ。
分かってくれたんじゃないのか。
だって今日、さっきまでまるで私のことを無視していたじゃないか。
追いかけてこなければ無関心そうにしていたじゃないか。
がちゃ、と金属音。多分内鍵が閉められた音。
「しかも、ちょっと泳がせとけば簡単に油断するし。大丈夫かって心配になるほどチョロい」
なにそれ、どういうこと。
春樹の言ったことをよく考えられないまま突然視界が反転した。
「あ…なんで、春樹」
「許さないって言った」
私の上にのしかかった春樹に制されて腕も足も自由が利かない。
なにこれ、なにこれ。
意味が分からない。なんでこんなことになってる。
許されなくてもいいと確かに思った。でもこんな事をされるような意味だとは思ってない。
「裏切った、二回も。最低だ、最低な女」
春樹の体重がかかった手首が床に押し付けられて嫌な音を立てて軋む。
痛いと言ってもその力が緩む様子が無い。
「俺が真琴を諦めたとでも思ってたか、そんなことできるわけないだろ」
さっきまで嗤っていたのに今はその表情すら掻き消えて、虚ろなようにも見える昏い光を宿している双眸だけ向けられている。
「忘れたのか、約束しただろ。傍にいるって。好きな奴ができたからって破っていい約束じゃない。そんなもの認められない、逃がせるわけが無い」
「やだ…止め、んっ」
荒々しく春樹が口の中に侵入してくる。押し止めようとしても防ぎきれない。
悲鳴もくぐもったものにしかならずその内酸素を求めて喘ぐだけになる。そうなれば春樹を阻むものはなにも無くなって私のことなどお構い無しに暴れまわる。
泣いたってどうにもならないことなのに喉が熱くなって壊れたように泣いてしまう。
「真琴」
離れては触れる合間に私を呼ぶ。返事などさせてくれないくせに。
激しい呼吸は一体どちらのものなのかもうよく分からない。ぐにゃぐにゃ歪む視界では春樹の顔もまともに見えない。ただ何度も何度も名前が呼ばれるのを聞いていた。
ふいに離れた唇が私の耳に直に押し付けられた。そうして聞きたくなくてもかすれた声を聞かされるはめになる。
「他の誰かのものになるなら今ここで俺のものにする」
その言葉の意味が分かって私は目を見開いた。
駄目だ、と必死になって暴れたが叩いても蹴っても悲しくなるほど春樹はびくともしない。
「や、嫌だぁ…」
がり、と首を噛まれた。そのまま噛み千切られるんじゃないかと思うほどの鋭い痛みに言葉を失う。そのシャツの中に春樹の手が潜っていくのが分かってまた涙がぼろぼろ零れる。
こんなの嫌だ。
こんな風にねじ伏せられるなんて嫌だ。
私の意志も決意も何もかも無視されるなんて嫌だ。
「お前が悪いんだよ、全部真琴のせいだ」
何で。私はこんな仕打ちを受けなきゃならない。
確かに春樹を傷つけたかもしれない。けど、それは春樹の為なのに。なんで分かってくれない。
「真琴が俺をこんなに奴にしたんだ。お前が嫌だなんていう資格ない」
怒っているのかもしれない。熱い息が私の首筋にかかる。
もう一度春樹は私の肌に歯を立てた。
私の悲鳴を聞いているみたいに噛み付いて傷口を舐めるのを繰りかえす。
「何で俺を捨てる。俺にはお前しかいないのに。お前がいないとなんにも無いのに」
そんなものは思い込みだ。
私しかいないなんてことはない。本当は春樹は何でも持っている。
どうしたら春樹はそのことに気付いてくれる。
「真琴、助けてよ。捨てないでくれ、ずっと俺のものになって。そしたら何でもするから、それ以外何もいらないから」
横顔に唇を落として、春樹は私の腰を抱きしめた。
弱弱しいのは口だけで、それを全身全霊で押し上げようと力を込めたのにますます締め付けが強くなるばかりでびくともしない。
嫌だ、と私がもう一度呻いた時、ガチャガチャとドアを揺さぶる音が続いた。
そしてすぐ鍵がかかっていたはずのドアが開いて、カシャと数回軽い音がする。
「はい、強姦現場の証拠写真」
デジタルカメラを掲げて、眼鏡をかけた茶色に近い髪色の男子がへらりとした表情で首を少し傾けた。
「し、のは、ら…」
そこに立っていたのは篠原純。
思わずその名前を呼んだら「怖い目にあわせて悪かったね」という返事が返ってきた。
「見損なったよ、新垣君。まさか君がこんな真似するとはね」
結局君もあいつらと同じだったって訳だ、最低だね。とにこにこ微笑みながらそんな言葉を口にする。あいつらというのは多分おそらく私が石川さん達に嵌められた時のあの二人のことだろう。
「この写真、学校の掲示板にでも貼ってやろうか、それとも校長に見せようか。どっちにしろ、大騒ぎになるだろうけど」
春樹は篠原の方を振り向かないままじっと私を見下ろしている。
その顔からよく表情を読み取ることができない。
「退学かなぁ、良くて停学だね。どっちにしろ島崎ちゃんの傍にまともに近寄れると思わないほうがいいよ。…って、いつまで乗っかってるの、さっさと退きなよ。ああ、可哀想だね島崎ちゃん。こんなに泣いてたのに止めてくれなくて怖かったね、嫌だったね」
篠原は同情するような目を向けて私の額に張り付いた前髪をかき上げた。
ぼろりと最後にもう一度視界が揺れて頬を伝って涙が零れていった。
あ、という音が春樹の口から漏れ出たような気がした。
「も…嫌だ…触らないで、近寄らないで」
開放された両方の掌で顔を隠す。
汚く醜い泣き顔。聞き苦しい嗚咽。弱くて情けない私。見られたくないもの全部。
今更隠したところでもう見られてしまったのだけど。
「無理だから…もう、駄目だ。無理、ぜんぶ無理」
発した言葉はぐしゃぐしゃで多分私にしか分からない。
真琴、と誰かが静かに私を呼ぶ。その声に私は応えない。
その時だけ自分の名前を忘れてただひたすら泣き続けていた。




