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8.6

「篠原」


呼べば何、と隣で声が返ってくる。

放課後、図書館。なんといっても期末テストが近い。家では多分あんまり集中してやらないだろうから図書館で勉強することにした。他にも同じような目的で図書館を利用している人がいて、いつもよりも館内はざわついている。


「あのさ、無理矢理付き合わなくてもいいよ、多分私閉館までいるし」


篠原も私に付き合って図書館にいるのだが、特に勉強するでもなく暇そうに頬杖をついて時々本をよんでたりしている。なんだか無駄な時間を過ごさせているみたいで申し訳ない。

そこまでして私のお守りなんかしなくていいのに、と思う。


「んー、僕が居たくて居るんだから気にしないでよ」


だが篠原はそう言ってへらりと笑っているだけだった。

うん、いつもの篠原だ。

昼休みに見た篠原ではない。

そのことにホッとする。あれは一体なんだったのだろう。

淡々と春樹に対して言葉を吐き捨てる姿は、いつもの篠原のイメージとはまるでかけ離れていた。最近、時々そんな篠原を見ることがある。

なんだか怖い。

それが素で、いままで私が見てきたのは全部演技の上の顔ではないかと疑ってしまう。


「あ、じゃ何か飲み物でも奢ろうか。ここじゃ飲めないけど。今から購買で何か買ってこようか」


それでも付き合わせているのが居た堪れなくて私は席を立った。が、それに続いて篠原も立ち上がった。


「そんな気を遣わなくていいよ。まぁ、僕も喉乾いてるから行くよ」


それはちょっと何か違うと思ったが、どう私が説明しても結局同じ結果になってしまうのは予想できたから止めた。

こうして私は篠原と一旦図書館を出ることにした。




四時半過ぎにもなると薄暗い廊下に他の生徒もない。テスト前なので廊下で練習している部活もないから本当に閑散としている。


「…篠原さぁ」


そんなに大きな声を出した訳ではないつもりだったけど、思いの外廊下中に響いた。


「なに?まだなにか言いたいことある?」


いつの間に握っている右手、こんなに近い距離。

登校も下校も昼休みも気付けばほとんど篠原といる。


「やっぱり良くないよ。篠原には篠原の時間あるんだし、私に無理矢理合わせることないって。春樹とはちゃんと別れられたし、もう私に世話焼かなくても大丈夫。多分春樹も私もお互いの事を気にしなくなると思うし」


こんな風に篠原を巻き込めば春樹の二の舞だ。いつまでこんな事をしていればいいのかはっきりしてないし、篠原からもう面倒だから止めたいとは言いにくいだろう。

高校生活も折り返し地点になった。篠原だって気になる女子の一人や二人いるだろうし、学校帰りに友達と遊んだりしたいだろう。それが私と付き合っているという設定のために犠牲になってしまうのが申し訳ない。


「何が大丈夫なの。今日だって動揺しまくってたくせに」


確かにあの場で一人だったら動けなくなっていた。崩れ落ちてしまいそうな春樹を前にして、手をさしのべたくなってしまう。駄目だと熟知しつつも。


「根拠なしで大丈夫だなんて言っても不安しかないんだけど」


「でも、やっぱり…」



「これは私達の問題だからって?」



びっくりした。

私が言おうとした事を篠原がそのまま言ってしまったから。

思わず立ち止まった私に合わせて篠原も立ち止まる。


「君たちって何でそう排他したがるかな。そういうのいい加減ムカつく」


篠原がぽつりと落とした単語、『ムカつく』。

一体彼は何に腹を立てているのか。君たち、とは他に誰がいるのか。


「関係ない奴は引っ込んでろみたいな、さ。そう言われたら何も言えないし出来なくなるじゃない。でも、よく考えたら既に関係ないことないんだよ」


丁度夕日の逆光で振り返った篠原に濃い影ができている。


「僕はもう全部知ってるし、こんなに掻き乱されてるのに今更他人事になんて思えないよ」


「篠原…?」


分からない、篠原がなんのことを言っているのか分からない。

また、いつの間にかさっきまでの篠原の姿は消え失せている。


「ま、とにかく余計な気遣いは無用って事。大体島崎ちゃんが助けて欲しいって言ったんだよ。それなら僕のしたいように動かせてくれてもいいでしょうに…あ」


声を上げた篠原の視線を追って振り返ると、こちら側に歩いてくるポニーテールの女子生徒。

初対面ではない。顔を合わせた事も話した事もある。けれど、名前は分からない。

目が合って、彼女も私達を認識したのか片手を上げた。篠原に向かってなのかもしれない。


「センパイ」


そうだったま篠原の言葉に彼女がもう新聞部の部長ではない事を思い出す。


「久しぶり、篠原。島崎さんも」


涼しげな顔にうっすら笑顔を浮かべて彼女は私達の前で立ち止まる。

私の顔と名前を覚えてくれていたのに少し驚く。あまり人に覚えられないことが多いから。地味すぎるせいなんだけど。


「どうしたんです、こんな時間まで受験生が」


「小論、担任に提出した所で今暇なのよ」


茶化したような言い方をした篠原に、部長さんは特に気にした様子もない。それくらい信頼関係ができてるんだな、と分かる。


「ああ、推薦受けるんですね。小論文とか面接とか面倒そう」


「面倒なんてものじゃないわよ。ほんとしんどい、あんた達が羨ましい…そうだ」


突然、部長さんが私の方を向く。

なんだと思ってびっくりする。光の加減で眼鏡の縁が一瞬鋭く光った。


「そういえば、島崎さんって新垣春樹と別れたんだってね」


「あ…はい」


いきなり春樹の名前が出てドキッとした。というか受験を控えた三年生の耳にまで届いているのか。


「先輩、今デリケートな時期だからあんまり島崎ちゃんを弄らないで下さいよ」


「別に弄ってる訳じゃないわよ」


眼鏡をかけ直して、それでも部長さんはひたと此方を向いている。


「私が聞きたいのは、本当に島崎さんが自分の意思で決めたのかっていうこと。誰かに誘導されたんじゃなくて」


なんでこの人はそんな事を聞くのだろう。


「先輩」


「あんたの言葉は聞かない。自分の良いようにしか言わないだろうし」


ぴしゃりと篠原を封じて、私を見据えて返事を待つ。


「…私が、決めた事です」


その言葉に嘘はない。本当のこと。

確かにきっかけは篠原が言った事だけど、ちゃんと私が決めた事だ。


「そう。…ならなんで今篠原といるの?」


「…え?」


本当にどうしてそんな事を聞くのだろう。

どこまで言っていいのか分からなくて篠原を見上げる。

すると私の代わりに篠原が答えた。


「島崎ちゃんが助けてくれって言ったんですよ。新垣君が中々別れてくれないから」


「それも、どうせ篠原が言わせたんでしょ」


淡々と言い放った部長さんに、やだなぁと篠原がにやにやと口元を吊り上げた。


「人聞きの悪いこと、言わないで下さいよ。貴女に何が分かるっていうんです」


「分かるわよ、あんたのしそうな事くらい。全部思い通りに事が進んで満足してることも」


島崎さん、と私の名前を呼ぶ。


「こいつは味方なんかじゃないわよ。それにできた人間じゃない。馬鹿な事もやらかすし、自分の馬鹿らしさに気付かないこともある」


「すごい言い様ですね」


「煩い、あんたは黙りなさい」


部長さんが私の心ごと見定めるようにじっと此方に顔を向けている。視線が合って落ち着かないのに、顔を背ける事が出来ない。


「忠告よ、これは。あんまり篠原が言うことに流されない方がいい。自分の事は自分で何とかしなさい」


以上、とそれだけ言って部長さんはすたすたと歩き出して行ってしまった。

茫然とそれを見送りながら、彼女が言った事を頭の中で反芻していた。




「…何がしたいんだろうね、あの人は」


隣の篠原がぽつりとこぼす。


「島崎ちゃんは単純だからなぁ、今のこと真に受けちゃったかな」


不相応な位楽しそうな声を上げる篠原がなんだか恐い。


「あくまで部外者の言うことだよ。何も分かってない人の独り言。

気にすることないよ、君が何か考え改めることなんてない」


「…篠原」


名前を呼べば篠原が横目で私を見下ろす。


「なに、もう僕の言うことは信用できない?僕が君を利用しているとか被害妄想でもしちゃった?」


その口角はまた吊り上がって、にやにやと笑っている。

何がそんなに可笑しい事があるのか私は全く分からない。


「利用してるっていうんなら、君たちを引き離して僕に一体なんの利点があるっていうのさ。思い当たるなら言ってみなよ」


さぁ、と言って篠原がにじり寄ってきて、思わず私は後ろに退けるもあっと言う間に壁に背中が付いて動けなくなる。手を繋いだままだから左右に避ける事もできない。


「篠原、ど、どうしたの…なんか恐いって」


何がと笑う篠原の目だけは何故か何の感情も映していない。


「僕が君を好きだからそのために君たちを引き離したとでも考えた?島崎ちゃんを唆して、別れさせたとでも。だとしたらそれは」


自意識過剰、と薄い唇が動く。


「悲しい、そんな風に思われたなんてがっかりだよ。だって僕がしてるのは島崎ちゃんのためなのに。島崎ちゃんの為を思ってやってる事なのに、信用してもらえないなんて」


鼻先が触れるほどに顔が近い。身を捩って逃げようとすれば身体を押し付けられてどうにもならない。

なんで篠原がこんな事をするのか分からない。


「ちゃんと僕の方を見てよ」


堪らなくなって顔を背けていれば、空いている手で顎を掴んで前を向かせられた。


「ねぇ、島崎ちゃん。どっちを信じる?友達か部外者どちらの言う事を信用したい?」


答えたくても、顎が押さえられて上手く喋れない。ただ首だけ左右に振るがそれすら固定されてるから僅かに動くことしか出来ない。

恐い。

篠原が恐い。


「そんな怯えた顔しないでよ、どうにかしたくなるじゃない」


クスクス笑ってそんな事を言う。

私の方は笑うどころか情けなくも見に世もなく震えてしまっている。ここから抜け出さなければと必死になって頭を動かせば篠原の手が少し緩んだ。


「やだって…篠原」


「何が嫌?ああ、泣かないでよ」


じわりと滲んできた視界を何かが遮り、水分を掬い取った。


「い、今、くち…」


その行為に愕然とする私に、篠原は相変わらずにやにや口元を歪めているだけだった。

ぶるりと寒くもないのに身体が大きく震えた。怖くて怖くて仕方がないのに、唯一自由が利く左手で空中を掻くしか出来ない。


「た、助け…誰か」


でも、もう周りに誰もいない。部長さんの姿ももう見えない。誰も通りすがる人は見えない。

ふと頭をよぎるのは、一人の男の子。

この後に及んで、助けてほしいと思っている私。調子が良いにも程がある。

決めたはずだ、もう何も考えないと。殺したはずなんだ、そんなものは。


何もかも諦めて固く目を瞑れば、篠原の顔が寄せられる気配がした。



「なぁんちゃって」



悪戯っぽい声が降ってきたと思ったら、篠原は押し付けていた身体をあっさり離した。

まだ緊張から抜けれず動けなくなっている私の手を取って余裕綽々な顔をしている。


「チューされるとでも思った?」


それはもう既に、いつもの飄々とした篠原の顔で。

私はからかわれたのだと悟る。

そして篠原の思い通りに動揺してしまった自分を思い出して、瞬時に顔に熱が走る。


「…っ篠原っ!冗談でもやっていいことと悪い事があるっ」


怒鳴れば、全く悪気のなさそうに「ごめんごめん」と篠原が謝る。


「島崎ちゃんがあんまりにもガチの反応してるから面白くって、つい」


「つい、じゃない!本気で怖かったんだから、もう二度とああいうことしないでよねっ」


「まぁまぁ、ほらこんな所で道草食ってたら勉強する時間無くなっちゃうよ」


「誰のせいだと…」


「ほーら、図書館五時半までなんだから」


もう一回文句を言ってやろうとしたのを遮って篠原は私を手を取って歩き出す。

脚の長さの違いで引っ張られる形になり、付いていくのに必死で声をあげるのを忘れてしまう。それすら篠原の掌の上で転がされているようでなんだか癪だ。

購買部のある一階まで降りてさっき言い損ねた文句でも言ってやろうと口を開けた時、誰かの声を耳が拾う。

聞き覚えのある高くて張りのある声を。



「待ってってば、新垣っ」



どうして学習しないのか私はまた横に振り返ってから後悔する。

井澤美咲、それから新垣春樹。

その二人が丁度生徒玄関の前を歩いてくる所だった。

井澤さんの腕が春樹の腰を捕まえているのが見えて、ついそこから目を逸らしてしまった。

なんで購買部が一階で、こんなに玄関に近い位置にあるのか理不尽だがそのことを心の底から恨んだ。


「…真琴?篠原も」


井澤さんの声が私の名前を呼んで、気付かれたのが分かってもやっぱり堂々と視線を合わせることができない。来なくていいのに井澤さんは早歩きで此方まで来てしまう。春樹を引っ張りながら。

不自然な所に視線を彷徨わせている私は不審以外の何物でもないだろう。

すぐ近くまで来て井澤さんが私の顔を覗き込んでいるのを感じて、どぎまぎしてしまう。


「やぁ、お二人さん」


さすがに篠原は心強い。

見習って私も愛想笑いを浮かべる。ちょっと引きつった笑顔になってしまったかもしれないけど。


「こんな時間まで何やってるの、帰らないの」


「図書館でテスト勉強してた所。ほら明後日からテストだし」


ね、と振られて上擦った声で、うんうんと焦って何回も答える。

すると誰かが、はっと笑ったのが聞こえた。

それが誰かなんて見るまでも言うまでもない。


「俺の家に上げてまで教えてやったんだからな。変な点数取るなよ」


誰かさんは馬鹿にするように言い捨てる。

どうしてその話をここで出すのか。井澤さんと篠原が居る前で。

事実だが、そんな事を言ったら邪推するだろ。誰でも。


「島崎ちゃんは真面目だから大丈夫だよ」


篠原が変な遠慮を見せて気を遣われたらどうしようと一瞬不安に思ったが、見上げた顔には少しも迷いは浮かんでなかった。

ほっと胸を撫で下ろす。ヒヤリとしたが危機は去った。


「じゃ、じゃあ勉強しなきゃ行けないから。私達はこれで」

 

とにかくこの場はさっさと逃げた方がいい。春樹と井澤さんに対峙していると心臓が痛くて仕方がない。

篠原を引っ張るように踵を返して早足で逃げる。


「裏切り者」


背後で低く唸る様に吐かれた言葉に振り返らない。

裏切り者で構わない。

私は裏切り者だ、嘘吐きだ。

一生春樹に恨まれたって文句は言えない。


「うん、そうだね。さようなら新垣君」


苗字で呼んでいたのはついこの前のことなのに懐かしい。

あの時の私は本当に馬鹿らしかった。春樹が私の事を忘れているのだと信じて色々気を回していた。

いっそ本当に忘れたいほど恨みを買ってしまえばいいのだ、私など。


許さない、と別れの挨拶の代わりに春樹はそんな台詞を寄越した。

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