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8.4

篠原は協力してくれると言ったが具体的には何をするつもりなのだろうとふと疑問に思う。

どうやって春樹を言い含めるつもりなのだろう。私には考え付かないような何か言い考えでもあるんだろうか。


「あんた、もう大丈夫なの」


声をかけられて我に返ると須藤が私の顔を覗き込んでいた。

なんか最近須藤に心配かけてばかりだ。


「うん、大丈夫。もう全然元気。あれ、これ授業のノート?須藤の?」


「文句あるんなら返しなさいよ」


そっぽを向いて膨れる須藤にちょっと笑ってしまった。

文句なんて滅相もない。机に置かれたノートを受け取って須藤に軽く頭を下げた。


「いや、助かる。ありがとう」


「あんたに他にノート貸してくれる人間がいなさそうだから、し、か、た、な、く貸してやったの。今日の授業の内容がテストで出て、後で恨まれても鬱陶しいし。ほんと仕方なくだからね」


「はいはい」


普通に貸せばいいのにどうしてそんなに意地を張るのか。いったい何がそんなに恥ずかしいんだろう。…可愛いから私的にはいいけど。

むー、と口をへの字にしていた須藤が「あ」と声を上げた。

何だろうと思って須藤の視線を辿って振り返る。


教室前の廊下には春樹の姿があった。

こちらを見て、その唇が私の名前の形に動いたのが見えた。




「いつの間にか保健室からもういなくなっててびっくりした」


春樹が来る予感はしてたし、心の準備もできてたはずだった。

しかし、いざ目の前にすると春樹の顔を見ることができない。また不審がられるだけだと分かっていてもどうしてもできない。

どうしても井澤さんの声を思い出してしまう。

井澤さんと何をしていたのと聞きたくなってしまう。


「行き違いになったのかな、わざわざ来てくれたのにごめんね」


口端がだるい。私はちゃんと笑えているだろうか。

春樹の視線が痛い。居心地が史上最高に悪い。

だが、予想に反して春樹はそのあたりには突っ込まなかった。


「俺こそごめん。やりすぎた、力の加減が出来なくて」


なんで春樹は近頃こんなに簡単に謝ったりするんだろう。少し前まではこういう事が逆に私が責められたりしそうな感じだったのに。


「言い訳だけど、お前がどこかに行きそうで怖かったんだ。離したら簡単に消えそうで」


例え本当にそう思っていようが、春樹がそういうことを言うような奴だっただろうか。そんな弱い心を人に晒せるほど無防備な奴だったか。

違う、小さな頃から知っている春樹は誰にも絶対弱みを見せたりしなかった。ましてや人に、私に縋ったりなどしなかった。

それが私はずっと嫌だった。

もっと情けないくらいに私に寄り掛かってしまえばいいと思っていた。

多分そんな気持ちで私が春樹と接していたから歪めてしまった。

自分の思い通りの姿に春樹を変えてしまったんだ。

ごめん、私のせいだ。全部。

心の中で謝罪を入れる。春樹はそれを分かっているのかいないのか、私の手は掬いあげられて指先が彼の手の中に包まれた。



「何でもするから傍にいてくれ。離れたりしないで、俺の事だけ考えて欲しい。頼むから、そうじゃないと俺は、俺は…」



壊れてしまうから。


悲鳴のように痛々しい言葉に胸がじくじくする。何にも力が働いてないのに苦しくって仕方がない。浅く呼吸をして声に乗せないで春樹の名前を呼んだ。

こんな事を私に言うのはプライドが傷つくだろう。できることなら言いたくないのだろう。

それでも言うしかなかったのは私がそう言われたらもう拒めないと理解しているから。

春樹にとっては最終手段のようなものだったんだろう。


離れないよ、と約束できたらどんなに良かっただろう。

何があっても春樹の傍にいる。いつだって春樹の事を考えている。

そう約束したらどうなるんだろう。


だけど、それは駄目なのだ。

そうしたとしても最終的に私が春樹を利用しているだけなんだ。


春樹のそれは私のとは違う。

恋ではない。

好きだとかではない。

子供の頃、縋れる人がいないままの意識なだけだ。あの時は春樹にとってまともに繋がりを持っていたのは私たち家族くらいだったから。特に私が一番傍にいたから。

未だにその意識が抜けないだけなのだ。

私を手放せば孤立すると思っている。誰にも見向きもされないで愛情を注がれないまま一人になってしまうと考えてしまう。事実は真逆なのにもかかわらず、だ。

だからこんなにも私に執着する。

私が逃げるのにこんなにも抵抗せざるをえなくなってしまった。


春樹の頼みを聞き入れてしまってはいけない。

これ以上可哀想な目に春樹を合わせたくない。

正当なレールの上に戻して上げなければいけない。


「春樹」


ゆらゆら揺れている瞳の光を見上げる。

磨き上げられた黒曜石のようなそれから目が離せなかった。縁取る瞬きの度に柔く震える長い睫毛に無性に触れたくなった。

でも触れてはいけない。

私はもう一生春樹に触れることは許されない。


「ごめんね」


「…なんで、謝ってるんだよ」


「本当にごめん」


「止めろよ、謝って欲しい訳じゃない」


「春樹には本当に申し訳ないって思う」


「だからなんで、なにが…」


大して意味のない深呼吸をする。

想像上の銀色の刃物を片手に握りしめて、思い切りそれを自分の腹に突き立てた。

血が吹き出る。

血まみれのその姿はきっと誰が見たって、汚くって、見苦しい。



「私にはもう約束は守れない」



一瞬で春樹の表情が凍りついた。

もう一度ごめんと謝ったが、春樹からの反応が返ってこないから聞こえているのかはよく分からない。

次の授業を開始するチャイムが鳴った。

なのに、春樹は動く様子がない。

私の手を握りしめたまま、じっと此方を見下ろしたまま。

魔法で石に変えられたみたいに動かない、呼吸する音すらよく聞こえない。

春樹の背後の窓が開いていて、そこから流れた風がその髪をさらった。




■■■■




あれで春樹は本当に諦めてくれたのだろうか。

よく分からない。

結局春樹はあの後一言も言葉を発せず、次の授業の先生が来るまで離してくれなかった。

私の言った事を聞き入れてくれればいいなと思う。



「あれ、島崎ちゃん今帰り?」


HRが終わったばかり、急いで玄関まで来たのにあっさり呼びとめられてしまった。

A組の方が早く終わっていたらしい。


「う、うん」


ならば尚更急いで帰らないと。

万が一でも昨日のように春樹に捕まらないとも限らない。

会話しつつも背後を確認すると、篠原がクスクス笑っていた。


「そんな警戒しなくても。新垣君なら井澤さんに捕まってすぐには来れないだろうし」


「あ、そうなんだ…」


井澤さんと。

いや、気にしてなんかいない。ショックなど受けていない。

むしろラッキーだ。


「新垣君も満更でもないんじゃないの。嫌なら別に無視すればいいだけなのにね」


そうだね、と答える私の顔にはちゃんと笑顔ができてるんだろうか。

篠原は笑顔を崩さないまま私のすぐ前まで来て私の顔を覗き込んだ。なんだか試されているような気分だ。私が春樹を本当に諦め切れているのか。


「ねぇ、ちょっとだけ待てる?僕も一緒に帰りたいっていったら迷惑かな」


意外な篠原の提案にびっくりする。


「え、だって部活は」


「んー、テスト一週間前だから休み」


「そ、そう…」


正直篠原がいてくれた方が助かる。

春樹にばったり会ったとして一人で対処しきれる自信がない。

篠原も私の事情が分かっているんだろう。

だから私の反応を楽しむようににこにこと笑みを深めている。


「なら、いいよ。一緒に帰ろう」


全く抵抗がないかと言われたら嘘になるけど。

良かった、と断られる気など一切なかったであろう篠原が言う。


「篠原の家ってどの方面なの」


逆方向だったら付き合わせてしまうのは可哀想だ。


「一回駅で電車に乗ってそこから南通り方面に行くんだけど。島崎ちゃんの家から遠くても送って行くよ」


「いや、ウチ割と駅から近いから大丈夫」


「なら、良かった」


篠原の意図は何なんなのだろう。

これも協力のうちの一つなのだろうか。

大体篠原がなんで私に協力してくれるのかも不明なままなのだ。聞いてもはぐらかされてしまった。


「あ」


不意に篠原が小さな声をあげた。


「ごめん、一回部室戻っていい?ちょっと持ち帰りたいものあるし」


「う、うん」


「怖かったら来てもいいよ」


私の心を完全に見透かしているかのようだ。

ごく自然に手を取られて、それを不審に思う暇もない。

引っ張られているという感じは不思議としない。

新聞部部室の前まで来ると篠原が振り返った。


「真琴ちゃん」


本当に何の前触れもなく、名前を呼ばれた。今まで篠原に一度も呼ばれたことがなかったのに。なんで、と聞く前に篠原は私の方へ顔を寄せた。


「すぐ戻って来るからちょっと待っててね」


耳元で言われて堪らず肩が飛び上がる。

しかも気付けば二の腕をつかまれてごく至近距離にいる。


「ちょっと篠…」


「新垣君以外にも慣れた方がいいよ、まず君変わらないと」


そうかもしれないけど、いきなりこれはないだろう。

まるで抱き合ってるみたいじゃないか。冗談でもやりすぎだ。

退けようとするが、細いはずの腕はどういう理屈か外れない。なんで。やっぱり私の力が弱すぎるのか。


「篠原、ちょっといつまで…」


「あはは、女の子の匂いがするー」


すんすん鼻を鳴らす篠原に羞恥心が増す。

においを嗅ぐとか…。


「篠原っ、もう怒るって」




「真琴」




大きな声ではない。

でも何故か切り抜かれたようにはっきりと私の耳は聞き取る。

怯えながらゆっくり後ろを振り向けば、そこにいたのは思った通りの人物。

なんで。

あまりにもタイミングが悪すぎる。いや、むしろ良すぎるのか。


「ああ、新垣君。何か用でも?」


頭の上で篠原がそう言った。

春樹がいた。その隣には井澤さんも。

あ、と声を上げるがその先には何も続かない。反射的にまずいと思った。疾しいことなど何もないのに。


は、と春樹の口角が一瞬上がったように見えた。

ゆらりと春樹の体が傾いたかと思うとあっと言う間にすぐ近くまで来ていて、振り上げた腕の先には握りしめた拳があって。


「春樹!」


何とかしなければ、と思うより早く体が動いた。篠原の顔の前、春樹の腕の軌道上に躍り出る。

さすがに怖くて固く瞼を閉じる。殴られた痛さは想像しないでおく。

だけど、その拳が私に落ちてくることはなかった。


「なんで…お前が庇う…」


目を開ければ、今にもぼろぼろ崩れていきそうな春樹がいた。振りあげた手は私の目の前でだらりと垂れ落ちた。


「何してるんだよ、真琴」


やっぱり少し笑っていた。段々とそれが泣きそうな顔に見えてくる。


「なんでそんな所にいるんだよ。お前がいるべきなのはそこじゃないだろ。

約束だってあんな一方的に破棄できる訳ない、なんと言おうが最後まで守ってもらう。あれくらいじゃなにも変わらないんだよ」


春樹が手を差し出した、小さく震えているその手が私の頬まで伸びた。

だが、その手は篠原によって振り払われた。


「約束って何のことか分からないんだけど、証拠とかちゃんとあるの?一筆でも取ったりした?まさか口約束のことでそんなに重く受け止められても島崎ちゃんが困るだけだよ」


大体、と篠原が続ける。

吐く言葉がどこか刺々しいように感じる。



「島崎ちゃんと今付き合ってるのは僕なんだからそういうのもうやめてもらえる?」



何を言いだすんだ、篠原は。

声を上げようとしたが肩にかかる力が強くなって口を噤んだ。

話をあわせろということか。


「…は?意味が分からない」


篠原は眉根を寄せる春樹を笑い飛ばした。


「えぇ、これ以上ないほど分かりやすい説明だったと思うんだけどな。つまり島崎ちゃんが好きなのは僕。いままで何を勘違いしてたのかしらないけど、ちゃんと島崎ちゃんは言ってたはずだよ、新垣君と別れたいって」


ね、と言われれば「うん」と答えた。

できるだけ表情が変わらないように。私の心が読めないように。


「なにそれ」


春樹の顔が強張っていく。

顔色は血の気を失って真っ青で、その表情は前にどこかで見たような気がした。


「嘘だろ、そんなバレバレの嘘に誰が引っかかる。冗談でも言っていい事と悪い事があるって何で分からないんだよ。なぁ、今なら許してやるから嘘だって認めろよ」


言葉とは裏腹にこれ以上ないくらい動揺していると分かった。

多分これはたった一度のチャンスだ。

春樹から私を切り離すチャンス。そうと分かれば迷わなかった。


「本当だよ、篠原が言ってることは全部」


見開いた春樹の目を、呑んだ息の音を、感じた。

傷つけてしまっただろうか。

でも大丈夫だよ、と心の中で春樹に言う。

この先きっと私と別れて良かったと思う日が来る。春樹ならそんな痛みなど気にならないほどの幸福を手に出来る。


「さっきから聞いてればなに言ってるのよ!付き合うだの、別れるだの。あんたは新垣の彼女なんでしょ、それがなんでそんな話になっているのよ!」


先程まで黙っていた井澤さんがすごい剣幕で私へにじり寄る。

その発言も全て春樹のためなのだ。

そういえば前に春樹と別れかけた時に真っ先に私に謝れと言っていた。

思えばその時からそうだったのかもしれない。


春樹は一人じゃない。

ちゃんと春樹の事が好きで思いやってくれる人がいる。

ああ、大丈夫だ。


「その話は、むしろそっちが嘘だから。島崎ちゃんは新垣君の恋人のふりをしてただけ。偽物なのは新垣君の方。だから僕と島崎ちゃんがどうなろうが何の問題がないんだよ」


そうして真実は明かされた。


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