8.2
朝、布団から体を起こして頭を掻いた。
いつもより良く眠れなかったのに妙に頭の中が冴えている。
まずため息が出てくる。お腹の中が石が詰まったように重い。
嫌だな。朝が来てしまった。
「言わなきゃな…」
このままで良いとは思わない。
でも、何も未練がないのかと聞かれると勿論そんなことはなかった。
もう止めようと。私に関わるのは止めて欲しいと。
言えばいい。それだけのこと。どうしてそれを言うのがこんなに苦しいのか。
手伝ってあげるよ
ちらりと篠原の言葉が頭をよぎったがそれを頭を振ってかき消す。
これは私と春樹の問題だ。
他の人に頼るのは良くない。私一人でやらなければ。
これは償いで謝罪なんだから。
私がやらなきゃいけない。それくらい傷を負わなきゃいけない。
顔を両手で揉む。
泣きそうな顔などしてはいけない。
絶対に少しの未練も見せてはいけない。悲劇のヒロインを演じるつもりはさらさらない。
島崎真琴がすぐに顔に出るような奴なら殺すのだ。
そして別の人間に生まれ変わる。
だれにも胸の内を悟らせない強い人間に。
なりたい、いや。
ならなきゃ、だめなんだ。
シーツを握りしてていた手の力を緩めてベッドから這い出る。
弱虫な私は死んだ。
もう、うだうだ考えているふりをして逃げたりなどしない。
いや、本当に決意したにはしたのだ。
嘘とか冗談ではなく。
「うわっ」
家を出て約三歩。まさかそこに春樹がいると思わなかった。
ちょっと早めに出たのに、なぜもう来ている。一体何分前からいたんだ。
てっきりいつもと同じように自宅で待っていたのかと思ったのに。
「うわって何だよ」
「いや、だっているとは思わなかったし」
つかつかと淀みなく春樹は私のほうへ歩き、私の手を取る。
はっ、と春樹が低くせせら笑う。
「せっかく逃げようと思ったのにって?」
「ち、違う。ちゃんと春樹の家まで行こうとしてたって」
それは本当だ。昨日のように春樹を避けたりしない。
ちゃんと春樹の家に行って、言おうと思っていたのだ。その為にいつもより早く家を出たのに。
「どうだか、お前は基本的に自分の都合しか頭にないし。置いてかれて俺がどんな気持ちになるか考えもつかないんだろ」
「…そんなことない。あと手、痛いから離してよ」
嫌だね、と春樹は意地でも離さない気らしい。
なんでそんなに喧嘩腰で話してくる…?
自分の都合だけ、とか言われたくない。じゃなきゃこんな事なんてしない。
何にも考えずに春樹の胸の中にいる。好きなだけ春樹に甘えていた。
春樹こそ私がどんな気持ちか分からないくせに。
まぁ、分かってなど貰ったら困るのだけど。
知れば余計に抵抗すると思う。
どんなに私が春樹のためだと説明したところで、私なんかに哀れまれたりされて堪るかと言い張るだろう。意地を張らせたいわけではないし、そんなことをしてもやりにくくするだけだ。
だから言わない。絶対に言わない。
私もあんまりな言い方に少し腹がたって黙り込んだ。
ただお互い無言で足を動かしているだけだった。だが、ふいに沈黙は破られた。
「なぁ、こんな殺伐としたのなんかもう懲り懲りだろ」
意外にも先に口を開いたのは春樹だった。
普通なら春樹の性格からして絶対折れないはずなのに。
「俺はもう嫌だ。お前に受け入れてもらうのを覚えたら、あんな状態に戻りたくない」
私だってそうだ。
昨日までの関係でいられたら他に何も望むものなどない。
「さっきは言い過ぎた。でも、お前に捨てられる俺の気持ち位想像してくれ」
「捨てるなんて…」
捨てるというのは適切じゃない。
認識が違う。
春樹の言い方だと私が悪女のようだ。
違うのだ。そうじゃない。
ひどい奴になりたくないからこんなことをしているんだ。
「聞いて、春樹」
奥歯を噛み締めて春樹の手を引いた。
今ここで言わなきゃいけない。躊躇なんかしちゃだめだ。
「ちゃんと付き合ってたか微妙だったけどさ、止めちゃおうよ。別れよう」
言った。ついに言ってしまった。
緊張で身体中が固くなっている。指先も冷えていく。
春樹が足を止めた。それにつられて私も立ち止まる。
「…お前、今の話聞いてたのか」
信じられないという顔で春樹が低い声を出す。
「ちゃんと聞いてたって」
「聞いててそんな事言えるのか」
険しい顔と低い声は、怒っているように見える。
でもそれに萎縮してはいけない。はったりでもいいから堂々としていなければ。
「捨てるわけじゃない」
「捨ててるだろ。あの時と同じだ、俺を切り捨てて逃げるんだそうやって」
「私がいなくても春樹は大丈夫だって」
「何を根拠にそんなこと言ってるんだよ。大丈夫なんかじゃない。全然大丈夫じゃない。真琴がいないと駄目だ。正気なんて保てない」
思っているほど簡単に春樹は曲げない。
依存の根が深い。
そこまでになっているなんて気付かなかったのは多分私も春樹に依存していたからなのだろう。
私も春樹ももっと外と自分自身を見なきゃいけない。
春樹は綺麗な人だ、美形であることを踏まえても私がいなくても人を惹き付ける魅力がある、ウチの学校でも群を抜いて頭だって良いし、運動神経だって井澤さんのお墨付きを貰うくらい優れている。これからもっと色々な場面で春樹は能力と才能を発揮するだろう。分かっていたことだが、春樹は超人じみているくらい出来る奴なのだ。自分の価値に気付いていたらいつまでも不相応な幼馴染に構ってなどいない。
「何が嫌なんだ。他の女といるのが嫌なら、真琴以外の奴に目を合わせなきゃいいか、ずっとお前だけ見てようか。他人なんて全部無視していつもお前のことだけ考えていようか」
「そ、そんなことしなくていい」
春樹にそんな真似をして欲しい訳ではない、決して。
まるきり逆だ。
春樹は自分の価値に見合う人たちと付き合うべきだと思う。
「じゃあ、何。俺に何か気に入らない所があるのか。なら直す。すぐにとは言わないけどお前が嫌だというなら必ず直す。それとも優しくしてほしいか、それならいくらでも大事に扱ってもいい。どんな要求も聞く、だから言え。なんで別れたいか、理由を」
「それは…」
適当にでっち上げてしまえ、と思うが愚鈍な私の頭はすぐには思いつかない。しかも簡単なものじゃ話にならない。なにか納得できて、春樹にはどうにもならない理由を言わなければ。
焦って口を開けたり閉じたりするが、一言も声を上げられない。
「言えないんならこの話は無し。当然受け入れられない」
「は、春樹…」
「大体おかしいんだ、急に態度が変わりすぎだ。昨日の朝まで普通だったのに、何のきっかけもなくいきなりこんなことになるなんておかしいだろ。しかも今回ばかりは俺に身に覚えもない。井澤との事だけでここまで飛躍するとは思えない。単に衝動的に不安になったりしただけなんじゃないのか。大方勝手に思いつめてそういう事を言い出したって所だろう。そんなものに付き合わされてたまるか」
衝動的なものじゃない。
常に潜在していたものだ。そしてそれは大事な警告なのだ。
分かってないのは春樹の方だ。
なんで私のいう事を聞いてくれない。思い通りに動いてくれない。
分からず屋、頑固者。頭がいいくせに何で私の存在が無駄だと気付かない。
他の誰のためにやっていることなんかじゃないのに。
「不安になったらまず俺に言え。そんなもの、どれだけ下らないか思い知らせてやるから」
わかったな、と子供を叱るように言われて引き下がるしかないのが悔しい。
私は圧倒的に春樹より口下手だし、まともに口で戦ったら勝ち目がないのは分かるけど。
「何ぶーたれた顔してるんだよ」
返事しないでいると鼻を摘まれた。
失敗だ。
折角決意したのに、春樹は一筋縄じゃいかない。
しかも何だか春樹のペースに乗せられてしまった気がしてならない。
一瞬、もういいかとか思いかけてしまった。本当に自分の意志の弱さが嫌になる。
確かに私の準備不足で、不自然だったのは認めるけどならばどうしたらいい。
どうやったら春樹は別れてくれる。
「…また変なことを考えているだろ」
その声に我に返って伏せていた目を上げればごく至近距離に春樹の顔があって驚いた。
「か、考えてないよっ」
心臓を押さえながら言い返せば、ならいいけど、と額になにか押し当てられた。
「またそういうこと…」
顔に走った熱を知られたくなくて顔を伏せた。
悔しい。こんなことくらいで赤面してしまうなんて格好悪い。
平然としていたい。動揺したことを悟られたくない。
「早く教室戻りなよ」
「まだHR始まるまで時間あるだろ。もうちょっといても問題ない」
そう言って遠慮なく私の肩や腰に遠慮なく手を回してぺったりと張り付いた。
問題ないわけない。大有りだ。
「ちょっと春樹、駄目だって、嫌だって」
人目があるのも理由だが、これ以上絆されたくない。
その腕から抜け出そうとするが、苦しい体勢になるだけで一向に出れない。
「春樹ぃ…離してってば」
「キスしていいか」
「あれ、私日本語喋ってるよね?私は離してっていってるんだけど…うっ…やだ…春…」
私の返事を待たないくらいならなぜ聞いた。
瞼の上、鼻先、頬、顎、顔中にキスで埋もれる。胸が疼く様に痛い。
「やだっ…どこ触って、怒るって。ちょっと春樹」
逃げ出したいのに体中の力がどんどん抜けてその内春樹にしなだれかかりそうになる。
そうなったらもう終わりだ。
もう戻って来れない、分かっていた。
だから全身全霊で耐えた。足に根が生えたように踏ん張って粘った。
それでも徐々に春樹の所へ手繰り寄せられてしまう。
もう限界だ、という時にやっとチャイムが鳴ったのが聞こえた。
春樹の腕の力が緩まったのに気付いてそこから全速力で抜け出して距離を取る。
チッと舌打ちをした春樹を尻目に教室の中に逃げ込んだ。
「次の休み時間もまた来てやるからな」
ホッとしたのもつかの間、春樹はそんな恐怖の捨て台詞を残して帰って行った。




