7.3
放課後、掃除も終わって教室に戻ろうとするとやたら目を引く男子が私の教室の前にいた。
それが誰かなんて言うまでもない。
まさか待ってるなんて思ってなかったけど。
「帰るぞ」
つい数時間前のことを反射的に思い出して動けなくなってしまった私の姿を確認したのか春樹は身を起こしてすぐ前に来た。その顔に動揺の色は見えない。その精神力が羨ましい。
まだ私が鞄を持ってないのに腕を軽く引っ張っている。まるで決定事項のような顔をしている春樹に困った。
しまった、そういえば言ってなかった。
「あの、春樹」
「なに」
特に虫の居所が悪い訳ではなさそうだ。振り返ってこちらを見下ろしている。
「ああ、早く鞄取ってきなよ」
「じゃなくて……今日一緒には帰れないです」
言うのが遅くなってごめんと頭を軽く下げる。これで少しは誠意が伝わってくれればいいのだが。
「あ?何で」
掌に加わる力が強くなっているのは多分気のせいではない。
はやく、ちゃんと理由を説明しなければと口を開く。
「と、友達とテスト勉強する約束してて…放課後図書館で」
ちらりと春樹を見上げると、すでにもう顔が固くなって目も据わっている。
なに、何が気に入らなかったんだよ。春樹の怒るつぼがいまいちよく分からない。
「…友達って言っても女の子だからね、須藤凛っていう」
「そんなことは聞いてないんだよ」
威圧的な低い声が被せられて思わず身が竦む。
「なんだよ、友達って。女だろうが男だろうがどうだっていい。そんなことより、お前がそいつを俺より優先させてるってどうなんだよ」
「え…?え…?」
ごめん、ちょっと日本語喋ってほしい。世辞にも察しのいいとは言えない私の軽い頭じゃどうしてそんな話になったか分からない。
「いらないだろ、そんなもの」
手を強く引かれ春樹との距離が縮まる。
「いや…ちょっと…待って、待ってよ。春樹」
足に力をこめて踏ん張る。私なりに全身全霊で。それでも私は非力でへなちょこで、多分春樹ならば本気で無視しようとすればできる程度の力なのだろうけど。
しかし、意外にも春樹はすぐに歩みを止めた。
そして振り返って、どうしてそうなるのか分からないが気がつけば春樹の腕の中にいた。
だから人前でこういうことは止めて欲しいといったのに…。
「頼むから…」
「え?」
耳元で春樹がぼそぼそと何かを言った。
「頼むから、他の誰かなんて選ぶな。じゃないと俺が何をするか分からないから」
え、なにちょっと怖い怖い。その脅し文句。春樹にかかれば脅しに聞こえないし。
そして相変わらず何の話をしているのか分からない。
「それに、あんな事までしておいて今になって突き放す気か」
「あんな事…」
「しただろ、真琴からキス」
は、と拍子外れの声がでてしまった。
い…言うか、この場で、この状況下で。私がそのことについて触れて欲しくないオーラを発しているのに気付いてない男じゃなかろうに。
なにも言えなくなってしまった私の耳に春樹の口元が寄せられる気配がした。そして囁くようにこう告げた。
「責任取れよ」
責任って…どんな…?
気になるが怖くて聞ける気がしない。十中八九聞かなきゃよかったと後悔するビジョンが見える。
「…いや、だから!なんか話がずれていってる気が、するんですけどっ」
春樹の腕から逃れようと我武者羅にもがくがますます拘束が強まっていくという不思議。蜘蛛の糸か、これは。
「私は単にテスト勉強がしたいだけで!一人じゃ絶対身が入らないし!そのために春樹を待たせるのは悪いと思ったから帰れないって言ったんだけどっ」
春樹にちゃんと聞かせるように、今度は途中で遮られないようにできる限り声を張った。
「テスト、勉強…」
「最初からそう言ってたよ…」
背中に回っている腕の力が徐々に抜けていくのを感じてほっと一息ついた。
これでやっと分かってくれた。
「そんなものする必要あるのか」
しかし、春樹のその一言で私の心の安寧は遠いという現実を思い知る。
「テストって定期試験のことだろ。ぬるいだろ、あれくらい。授業と聞いて教科書に目を通しておけば勉強時間なんて割かなくても余裕」
「そんな…全校生徒を敵に回す発言を…」
何が、と本人は自分の発言の罪深さを知らないようである。
くそ…そりゃ試験成績優秀者で毎回名前が一番上に張り出されるくらいだもんな。模試でも偏差値がウチの父親のウエストと同じくらいらしいし。テストなんかお遊びだろう。毎回一夜漬けでひーひー言いながら単位を取ってる私と別世界だろう。
「…とにかく、私はテスト勉強しないと大変なことになるんです。だから春樹はどうぞお帰り下さい、こんな馬鹿めなぞお気になさらず」
卑屈な言い方だという自覚はあるが、これぐらい言っておかなければ済まなかった。なんだかとても心が荒んでいる。
「どこが分かんないんだよ」
「……え」
「分からない所教えてやるって言ってんだよ、数学今回テスト作るの山岸だから問題出るとことかも知ってるし」
あまりにも驚いて春樹から体を離してその顔を凝視してしまった。
「…それは、本気で?」
「冗談を言ってるように見えたのかよ、真琴には」
いや、そうは見えなかったけど。また幻聴が聞こえたかと思った。
勉強教えてくれるとか…なんなんだ。天変地異の前触れか。
というか全体的に今日がおかしい。むしろ昨日から、変。
なにかがおかしい。誰だ、この人。分からない。
困ってしまう。
春樹がおかしいから、私もおかしくなってしまう。
事実、今日とてもまともとは思えないことをやらかしてしまった。
まずい、これはヤバイ。本当にここで立ち止まらなければまずい。
だって、怖くて仕方が無い。
おかしくなった私がなにをしでかしてしまうのか。
「いや、でもごめん。須藤と先に約束してたから…」
「あぁ?してないわよ、そんなもん」
背後から明朗な声がして慌てて振り返った。
アーモンド型の目はさらに吊り上ってふっくらした小さな唇を真一文字に結んでいる癖のないロングヘアの女子が一人。
そこにはいつの間にか須藤が立っていた。え…ほんといつからいたの。
でもそりゃ来るだろうなと思う。
だってここは教室の前だ。しかもよく考えれば私さっき見っとも無く叫んでいた。
そりゃ気付かない訳がない。
「ひとのことダシにつかってイチャコラしてんじゃないわよ」
「いやこれは…」
「大体ね、あんたと勉強してもはかどる気ゼロな気しかしないのよね。完全にボランティア、それを島崎がどうしてもっていうから話に乗っただけよ。べつにそれが無しになったって何とも思わないし。むしろラッキー」
ふん、と鼻息荒く言い放って髪をかきあげた。
「須藤」
「だからさっさと彼氏とテスト勉強でもなんでもすーれーばー?せいぜい留年でもしないように頑張ってね」
須藤は私のほっぺたにぐりぐりと人差し指を押し付けてから踵を返してあっさり歩いて言ってしまった。待ってと言っても立ち止まる気配がまるでない。
口ではああいっていたが、きっと須藤なりに気を遣ったんだろう。
そんなの私にだって分かる。
私から須藤にお願いしていたのに申し訳ない。後でメールでも入れよう。須藤に今度何か奢ろう、うん…!
「行くぞ」
いつの間にか首に回った腕が私を急かす。
「テスト勉強しないと大変なことになるんだろ」
そして春樹は前言を撤回する気がないらしい。
そりゃ教えてくれるのはありがたいが、本当にいいのか?
あとで文句を言われたって困るんだけど。




