6.6
親が離婚した。久しぶりに会った父親に説明されたが、聞いてもまるで心が動かされなかった。ただ、浮気の証拠を捕まれて母親が慰謝料を請求できなかったのが馬鹿だなと思っただけ。それから、俺は父の方に付くことになった。
それでも何にも変わらない。俺の周りは何も変わらない。相変わらず皆俺を優等生だと騙されているし、呼びもしないのに女は寄ってくるし父親は家に帰らない。そして、真琴も戻ってこない。
俺といえば歳を取って身長が伸びて骨格が少しがっしりしただけ。基本的にあまり変わらないまま中学も最終学年になった。
「新垣、お前進路希望どうしたんだ」
放課後、職員室に呼び出されて担任が俺に一枚のプリント用紙を差し出した。
進路希望調査書と書かれていて、そこには俺の字で自分の名前が書かれていた。
「どうして何も書いてないんだ、志望校が決まってないのか」
はい、と曖昧な笑顔を顔に貼り付けて答える。
この問答が面倒。しかしこうなることを分かっていても書けなかったのだ。
例えばどこかの高校の名前をそこに書いて、その学校に通うことになってもまた同じような生活が待っているのかと思うとうんざりする。
その先に俺が望んだ未来があるとは思わないし、俺が望んでいること自体分からない。何がしたいか分からない。だから何も書けなかった。そんなことは担任には言えないけど。
「お前の成績ならA高だって余裕だろ、それとも有名私立でも狙ってるのか」
「そんなところです」
適当に答えれば担任は途端に機嫌をよくした。
「そうかそうか。ならそう書けば良かったのに、もっと自信を持てよ」
その顔に打算の色を読み取る。
しかしそれにも気付かない振りをして、頷く。肩を叩くのを振り払いたいのを我慢して拳を握り締めていた。
「先生で良かったらいつでも相談に乗るからな。あとお母さんともじっくり話し合ってきめるんだぞ」
そうしてまた紙切れ一枚手渡される。
相談をする気は更々ないし、母親は俺の進路になど興味はないので無理です。と正直には答えなかった。ただ従順にハイハイ答えて職員室を出た。
廊下に出てすぐ、英語の女教師が立っていた。そうしていきなり俺の耳元に顔を寄せる。
「新垣君、今年受験生でしょ」
ええ、と苦笑いをしながら答えた。
「勉強分からなかったらいつでも聞いていいから」
そうして俺の手になにかを握らせる。手を開いて確認すると電話番号らしきものが書かれていた。
「先生は、いつでも新垣君の味方だからね」
そんなものが味方か、とその眼鏡に唾を吐きかけたい気分だった。
一体俺の何を知っていてそんなことを口にする。
それに、本当に味方ならなんでそんな目で俺を見ている。なんでそんなに顔を赤らめている。電話番号まで渡す意味がどこにある。
ただ親身な教師の皮を被った欲望の塊。それが俺の味方とは笑わせる。
「ありがとうございます」
のぼせ上がらせない程度に対応して、急ぐのでと会釈してその場を去った。職員室を出てそのメモは丸めて玄関のゴミ箱の中に放り込んだ。
「めんどくさ」
電気も付けない薄暗い自分の家の部屋の中、一人呟いた。紙切れを一枚弄ぶ。
とりあえず適当に書けばいいのだろう。教師が言ってた私立やA高でもいい。
どうせ何にも変わらないのだ、この先。どこまでいっても虚しくてつまらない。異質で空っぽで無闇に人の目を集めるようなそんな存在以外にはなれないのだ、俺は。
いっそこのまま消えたい。消えてなくなってしまえばいい。
誰の目にも留まらず空中に漂い、その内拡散して無くなってしまえばいいのに。
「なにやってんだろうな…」
本当なにやってるんだろう、自分は。
いつから俺はこんな奴になってしまったんだろうか。こんな無気力などうしようもない奴になってしまったんだろう。他の奴らはこういう虚しさどうしているのだろか。教室で騒いでいる奴らはその面の下、それを隠し持って耐えているのだろうか。それとも、そんなもの感じていないのか。自分がどこに向かえばいいのか、どうしたいのか分かっているのか。きっと後者なんだろう。だからこの紙切れに書き込めたのだ。
自分だって、そうだった。
多分自分がしたいことは分かっていた。何となくだけど、どこに向かっていけばいいのか分かっていた。
だけど無くしてしまった。もう、ない。俺には、ない。
進路希望調査書は俺の手の中でぐしゃぐしゃになっていた。
「会いたいな」
自分でも無意識にそう零していた。
会いたかったのだ、ずっとずっと。
あの子。たった一人のあの子。
自分がこのままどうしようもなくなり続けてそのまま消える前に会いたい。
あの子の名前を呼びたい。この目にその姿を映したい。自分を見て欲しい。
随分久しぶりに何かをしたいと強く思った。
どうして今までそうしなかったのかと聞かれると答えは考えるまでもない。
怖かったのだ。今はまだ真琴が戻ってくるかもしれないという希望が辛うじてあったけど、会って今度こそ拒絶されたらと思うと何もできなかった。そうなったとき、どうなるか自分でもわからない。これ以上壊れるのか、無様にその場に泣き崩れるのか。だからできなかった。会いたいと思ってもそれを無視して怯えて薄っぺらの世界にしがみ付いて何もしなかった。
でも、もうどうなったっていい。
真琴に嫌われるのは嫌だ、逃げられるのも嫌だ。やっぱり捨てられたと分かるのが怖い。俺以外の人間が傍にいるのを見るのが怖い。簡単に自分の元から離れた真琴が憎い。
だけど、それでも会いたい。
それでどんなに傷付こうが壊れようが、どうしたって会いたい。
ずっと彼女に会いたかったのだ。
書斎のラックから一枚の葉書を取り出した。
真琴のお母さんから来た年賀状、返すに返せずそのまま捨てることもできなかった葉書。
そこに真琴が今住んでいる住所が書いてある。
ネットで場所を調べて、行くなら距離的に電車だろう。あいにく今それほど持ち合わせはないからタクシーは使えないだろうし、バスは予約制だった。
ダイヤを確認して葉書と財布を引っつかみ、家を出た。
俺は駅に向かった。まだ終電でもないのに、何故か全速力で走っていた。
何故か少しも余裕が無かった。
馬鹿みたいに格好悪い。
こんな夕方に、よく考えたら制服を着たままで靴も適当に履いたサンダルっぽいもので走りにくい、自転車を使えば良かったということを大分家から離れてから気付いた。
そんな自分が滑稽で笑えたが、だけど惨めだとは思わなかった。
真琴に会いに行くんだと思えば、息を切らしてでも足が止まらなかった。
道行く他人の視線を感じようがどうでもいい。頭がおかしいと言われたって笑われたって構わない。そもそも他人にどうこう言われる筋合いがない。
誰にだって止められたくない。邪魔なんてさせない。
真琴に会いに行く。そしてできることなら懇願してでも傍にいたい。
というか多分俺がもう離れられない。
傍にいられるのなら、何だってしてもいい。
真琴が嫌がるならもう苛めたりなどしないし、壊れ物を扱うように大事にしてもいい。俺が持っている何をあげたっていいし、溶けるほど甘やかしてやることだってできる。
だからずっと傍にいてほしい。
会えたなら、そんなことを伝えたかった。
■■■■
電車を降りて、携帯で地図を確認しながら歩いていて割りとすぐに島崎家は見つかった。
停車した駅からそこまで遠くなくて良かった。この時間ならバスの本数も少なくなっていてあまり長距離の移動はできなかった。
島崎家はアパートやマンションではなく持ち家だった。
車庫から覗いている車に見覚えがあったので確信を持った。
時間は8時を回っていて訪問するのは非常識だとは分かっていたが申し訳ないと思いつつインターフォンを押した。一日待って改めて行くなんてできない。そのまま自分が臆病風に吹かれて帰らないとも限らない。
『はい、島崎です』
少しして女性の声が出た。
「夜分遅くにすみません、新垣春樹です」
『えっ…えぇっ春樹君!?』
見えなくても表情が分かるような声がしてすぐにドアが開いた。顔パックをしたままのおばさん、基真琴の母親が目を丸くして此方を見ていた。
「お久しぶりです」
「うん、ホント久しぶり…あらやだ、すっかり美形になっちゃって」
頭を下げると、おばさんは家の中に招き入れてくれた。
家の中に入ると懐かしさに少し目頭が熱くなった。
ここはあのマンションじゃない。だけど、雰囲気は同じ、匂いも同じ。
暖かい。安心する。俺は真琴の家が好きだった。
「家でなにかあったの?お母さんとはどう?何かされた?」
座るように促された所にマグカップを渡された。中身はホットミルクだった。
「いや、家は何も。特に変わった所は…。親が離婚したくらいで」
「大変なことじゃない!」
おばさんが大きな声を出して、驚いて咽てしまった。
「辛かったわね、そんなことなら電話のひとつでも入れてくれればよかったのに。こっちから電話して下手にお母さんが出たら春樹君が何かされるかと思ってしなかったけど、それでも連絡入れればよかった」
本気で口惜しそうにしているおばさんにむず痒くなる。
「いや、それはいいんです。父親側に付くことになったし、別に今更寂しくはないんで」
頬に熱が走るのを感じて、顔を下に向けた。
久しぶりの扱いに困惑してしまう。まるで小さい子供を心配するよう。多分、この人の中では俺はまだ小学生のままなのだろう。
「それより…真琴ってどこですか」
本題に入ってしまおう。
俺の言葉におばさんは豆鉄砲を食ったような表情になった。
「今日、来たのはどうしても真琴に会いたくなったからで…こんな遅くに不調法ですが」
おばさんの方を見ると、何やらぼうっと呆けている。どうしたのだろうか。
「…春樹君。おばさん、なんか感動しちゃった…」
暫くしてそんな言葉を呟いた。
何に感動したのかよく分からなかったが。
「でも、ごめん真琴いないのよ」
「え…」
「修学旅行行ってんのよ、今。ついでにおじさんも出張中。いまウチにはおばさん一人なの」
修学旅行…。そうか今時期にやる学校もあるんだった。録に調べなかった俺が迂闊だった。
がっくりと脱力した。阿呆のように意気込んで来たのに、結局はこのざま。
「…まぁまぁ、また来てくれれば会えるわよ」
「だと良いんですけどね」
自嘲気味に笑った。この臆病者には多分無理だ。今だって会えなくて良かったとも内心少し思ってしまっている。
「あ、そうだ。春樹君、真琴と同じ高校行けば良いんじゃない?そしたら高校で毎日真琴に会えるわよ」
突然のおばさんの提案に今度はこっちが唖然とする番だった。
「同じ…高校…」
「でも、春樹君にも行きたい高校あるわよね。ごめんね、強制したわけじゃないのよ」
いや、と言葉を挟む。
そうしたいと猛烈に思った。それなら前のように真琴の傍にいることができる。
どうしてそのことをもっと早く思いつかなかったのか。
「行きたいです、同じ学校。教えてくれませんか」
俺は深くおばさんに頭を下げた。
「そんな畏まらなくたっていいのよ、頭も上げて。そんなの全然教えてあげるし」
「ありがとうございます」
だからもっとくだけていいんだって、とおばさんが俺の頭を引き上げた。
だって感謝したい。一気に俺の中でこれからの指針が決まった。体中に力が漲ってくるのを感じる。
「…おばさん、全面的に春樹君の味方だから」
その言葉が純粋に嬉しい。
どこかの教師とは違う。本当に心から言ってくれているのが分かったから。
ありがとうございます、ともう一度感謝の言葉を伝えた。




