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6.1

6章はずっと春樹のターン




――――ずっとハルキ君と一緒にいる。一緒にいて守ってあげる、お母さんからもぜんぶ。


その子はそう言った。確かにそう言った。

俺よりずっと弱そうなのに、それどころかいつも危なっかしいような奴なのに、そう言った。何を考えているのか少しのためらいもなくそう言った。


泣きたくなるほど、その言葉が嬉しかった。


なにかが自分のなかで満たされていく気がした。満たされてあふれ出してむず痒い。でも悪くない気持ちだ。

その当時は、単なる口約束にすぎないその言葉がちゃんと果たされると信じて疑わなかった。信じていたかった。それがただの口からでまかせになると疑いたくなかった。

なんにもなかった空っぽの俺にはそれだけが全てだったから。



■■■■



俺が生まれた時から、親の仲は最悪で、お互い自分の事で手一杯で、その目が此方にくることはなかった。ほとんど放置されていってもいいだろう。

その時のことはあまり覚えてないが、見かねて父方の祖母がまだ小さかった俺の世話をしてくれた。だが3歳になる頃にはその祖母も亡くなってしまった。そうして俺は親の元にいるしかなくなった。

何年経とうが、やっぱり両親が俺を気に掛けることはなくそれどころかさらに状況はひどくなり、父親が家をあけがちになった。


不倫の果てはこんなもの。父親は妻がいたのにも関わらず母親と関係を持って、母親が俺を孕んだ。母親は堕ろさないと言い張り父親の自宅に乗り込み暴露し離婚させた。その結果がこの生活。本当に馬鹿らしい。

俺ができなかったら、結婚する気のなかった二人だからうまくいくわけがなかった。

ましてや子供に対する愛情とかあるわけがなかった。


父親もそうだが、母親に至っては母性とはかなりかけ離れた女だった。

もとは水商売上がりで美人と人には言われたけれど、目つきも声も何から何まで温かみや優しいものを一切感じないような女。

日に日に母親は感情の起伏が激しくなり、些細なことでヒステリーを起こすようになる。

元々、自分のことしか考えていないような人だ、その八つ当たりが俺にまで波及するまであまり時間はいらなかった。

母親の機嫌が悪いときにその視界に入れば、目つきが気に入らないと問答無用で殴られる。父親が来ないのは俺のせいだと責める。俺に当たっても仕方がないことなのに、馬鹿女には分からないようだ。

加えて母親は月に何度も業者を入れるほど家の中を綺麗に保ちたがった。少しでも汚してしまうとまた頭がおかしいのではないかと思うほど殴られたし躾と称して火のついた煙草を素肌におしつけられり真冬に裸でベランダに一晩出されたこともある。母親の訳のわからない潔癖性のおかげで家の中は確かにいつも埃一つ落ちていなかったが空気は暗く淀んでいたような気がして俺には決して綺麗とはみえなかった。俺にとって家の中が一番嫌いな場所だった。

手加減がない痛みに最初の頃は泣き叫んだけど、いつしか泣いていたって誰も助けてくれないことに気付いた。

泣けば余計に母親の勘に触って長時間殴られ続けることになったし、余計にエネルギーを使うことになる。そして泣くのを止めてただ時間が過ぎるのだけを待つようになった。


母親が家にいるときはなるべく外に出ているようにした。いつ手が出るか分からないのだ、なるべく目に留まらない方が楽だということに気が付いた。

どうせ母親は俺がどこにいるのかに気を回したりしない、ただ母親は外聞だけはひどく気にする虚栄心の強い人間で、俺が母親にされていることを他人に知られるのを恐れていた。

さらに一度マンションの住人に疑われて最終的にひどい目にあったことがある。悪いことは結局全部俺に回ってくる。分かっていたからなるべく人目に付かないところにいるよう心掛けた。誰の目にもとまらず一人で息をひそめていること、それが当時の俺の全てだった。そうするのが一番安全だった。



あるとき新しい住人が越してきた。

といっても、春とかに住人の入れ替えは結構頻繁にあるので別にそのこと自体はあんまり珍しくはなかったのだが。

偶然上からその家族が歩いているのが見えた。

そして両親に手を引かれて歩いている女の子に目がいく。自分と同じくらいの年頃の。

別になんでもない光景だといえばそうだ。どこにでもある家族の一コマに過ぎない。

だけど、なんだかその光景が苛立たしかった。ただの八つ当たりかもしれないけどその女の子に腹が立った。いや、それよりもその子にあってなんで自分にはないのかそのこと自体に腹が立ったのかもしれない。



その翌日、その女の子に遭遇することになった。

というより遭遇というか発見されたというか。

なんか豪快に音を外している歌のようなものが聞こえてくると思ったらその子だった。その女の子は前歯のない口で笑っていた。そしてなんのためらいもなくこちら側に寄ってきた。


「あたしマコトっていうの。昨日からここの401に住んでるんだ」 


その子が真琴。これが俺と真琴の出会い。

歯は無かったがその笑顔は人懐っこさをたたえていて可愛らしくみえなくもない。

だけど、当時の俺は最初から真琴が気に入らなかった。

遊ぼうと言われて当然のように拒否した。

断れられると思ってないんだろうと考えてたけど、その子は少しもめげたようすがなかった。


「えー、遊ぼうよぉ」


しつこく纏わりついてくるから。煩わしくなって突き飛ばしてしまった。

ここが階段だというのも忘れて。


真琴は簡単に転がり落ちていった。まさかそんなことになるとは予想してなかったから、慌てて駆けよって呼びかけるが、反応がない。

本当に死んだかと思った。

急に怖くなって、いてもたってもいられなくなる。

誰かに知らせなければ、と思って走り出す。さっき401号室と言っていたのを思い出した。



結局、真琴は命には別状なかったが、怪我させてしまった。

当の本人はそんなことを気にもしてないようだったから結局謝り損ねてしまった。

しかし負い目があるのとおばさんに言われたことがあって、遊ぼうと言われて断れなかった。今日だけなら別にいいか、と思った。

真琴はやたら明るくて強引で、つい真琴のペースに乗せられてしまう。少々癪だったけど、でも嫌ではなかった。

改めて思えばまともに同年代の子供に接するのは初めてだったかもしれない。

色々と新鮮だった。そして怖かった。楽しいとか嬉しいとか思ってしまうのが。


日が暮れて真琴が家に帰っていって、怖かったものの正体がわかった。

魔法から解けたみたいだ。

家の中に入って、母親の機嫌が悪くないか伺いながら、その怒りに触れないようできるだけ存在しないように振る舞う生活。母親がいなければそのがらんとした部屋に一人転がっている生活。誰からも気にかけてもらえない生活。生きているのか死んでいるのかも分からない。なにも詰まってない空っぽの人形みたいな存在。


分かってしまった、俺には何にもないと。


つい数時間前を思い出す。自分の名前を呼んでくれる人がいて、自分は息を切らして走っていた。その時はたしかに俺は空っぽではなかった。

寂しい、と思った。

寂しくて寂しくて堪らなかった。

いままでで一番笑っていたのに、今は一番悲しかった。

その感情をどうすればいいか分からなくてただもてあました。でもそれはただ持ってるだけじゃ辛くて仕方がない。これだったら母親に殴られていたほうがマシなように思えた。

真琴のせいだ、と決めつける。それ以外が思いつかなかった。

あいつのせいで自分はこんな苦しくなってしまった。もう絶対、構ってなんかやらないと心にきめた。


だけど、どうしてか昨日と変わらない柔らかい手で引かれるとどういうわけかうまく抵抗できない。

昨日までとか思っていたのに、結局また真琴と一日一緒にいた。

同じ遊びを繰り返しても飽きなかった。真琴は鈍くてノロいから色々手加減してやらなきゃいけないことがあったり、結構危なっかしいことをしようとするからそれを助けてやる必要があったけどそれを面倒臭いとは思わなかった。むしろそうすることにある種の喜びを感じていたのかもしれない。


「ハルキ君?」


夕暮れ時、帰ろうと自分の部屋のドアノブに手をかけた真琴の手を掴んでしまった。

そんなこと全くするつもりなかったのにしてしまった。振り返った真琴が俺の顔を不思議そうに覗き込んでいた。

またあの空しさや寂しさが襲ってくると思うと怖くて仕方が無かったからかもしれない。


「…なんでもない。さっさと帰れば」


だけど、それを口にできなかった。

言ってしまえば惨めな自分を晒すことになるから。


「うん、また明日遊ぼうね」


明日遊ぼうね、とか。

ずるい。

そんな一言で、本人はきっと何にも考えないで言っているのに、それだけでこんなにも自分の胸を温めてしまう。

そっと目を瞑ってみた。このまま目を瞑ってみれば早く明日が来るだろうか。


俺は待っている、明日でも明後日でも待っている。


待つだけでそれでまた俺の所に来てくれるなら、見たくないものの中に埋もれた俺を連れ出してくれるなら、いつまでだって待っている。


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