5.8
*暴力表現あります
ある時から春樹と私は殆ど毎日遊んでいたと思う。
幼稚園は三ヶ月待ちとかのレベルだったし、遊び相手がいなかったのだ。
かなりの人見知りの春樹は他の子に遭遇しても、泣かせてでも絶対に近づかない。なのでいつだって二人きりでいるしかなかった。
実際、一人が好きだったのかもしれない。
私が勝手に春樹に付きまとっていただけだ、鬱陶しかったのだろう多分。妙に大人びている部分があるから、我慢していたのかもしれない。私の面倒を見てやっているつもりだったのかもしれない。
「ハルキ君、明日プール入ろうよ」
夏も真っ盛り、私は春樹にそう提案した。
母がビニールプールを用意してくれると言ってくれた。
そんなに大きいものではないが、冷たいし服が濡れるのを気にしないで水鉄砲で遊べるし当時の私は大いにはしゃいでいた。
そんな気持ちが春樹に伝染したのか、心なしか春樹もいつになく乗り気だった気がした。
八時にウチに行くから、と珍しく積極性を見せていた。私は当時は時計の見方すら分からなかったが、特になにも考えないで、ウンと気軽に答えた。
ところが翌日、昼を過ぎても春樹が来なかった。
昼食を用意していた母は心配して、私に春樹を見てくるように言って、私は家を出た。
春樹はいつもの階段の踊り場にいた。
一人で小さくなって冷たいコンクリートに座り込んでいた。
何かあったのだろうか、いつもより元気がないように見えた。
「ハルキ君?」
「こっち来るなよ、バカ」
また超人見知りモードに逆戻り。威嚇するみたいにこちらを睨んで近づこうとする私を手で制す。
「ねぇ、ウチに来ないの?プール入んないの?」
「行かない、やっぱり止めた」
えぇ~、と私は不満の声をあげた。一人だけで遊ぶのは詰まらない。
そんないきなり約束を破るなんてひどい。せっかく楽しみにしていたのに。
私はやだやだ、と駄々をこねた。
春樹を力任せに揺さぶって、私達はいつの間にか取っ組み合いの喧嘩をしていた。
「…あれ」
ふと春樹の着ているシャツが捲れあがって、肌が晒された。
脇腹、きれいな肌に、そこだけ、その一部だけ赤黒く変色している。
なにか、異様なものを感じた。
「見んなよ!」
春樹が瞬時に起き上がり、体を隠す。
その慌てた様子にますます異様さを感じる。
「大人にも誰にも絶対言うな、おばさんにも」
その言葉には有無を言わせない迫力があった。
どうして春樹がその痕を隠しているのか分からなかった。
けれど、子供ながらに感じ取る。ただならぬもの。
私は大人しく春樹の言葉に従った。なんだかそうしなければならない気がして。
べつの日、また事件があった。
春樹が家から閉め出された。
家の人が鍵をかけて、出かけてしまったらしい。
ウチで晩御飯を食べて、もう一度見に行ったけどやっぱり春樹の家の人は帰ってきておらず、鍵もかかったまま。
結局春樹はウチに泊まることになったのだ。
私の方は春樹が一緒に泊まることになってワクワクしていた。子供にしては遅くまで春樹を付き合わせてゲームしたり絵を描かせたりアニメ見させたりしてしまった。
友達がウチでお泊りするなんて初めてのことだったのだ。興奮状態にもなってしまうのも仕方が無かったと思う。それにしてもよくあの春樹が反発しなかったのが不思議だ。
もう一度春樹のウチに電話をかけたが留守電になっただけで家の人が帰った様子は見られない。一応母が春樹をウチで預かっている旨をメッセージに残しておいた。
妙に大人びたところのある春樹は何かと母や父に遠慮していた。決して大人に反抗することがない。聞き分けがよくて賢いすごく良い子、と母も父も春樹を可愛がっていた。
だから、今回の事は二人とも困惑したらしく、何やら二人で話していた。子供部屋からは何を話しているか良く聞こえず、そもそも当時の私はそんなことにあまり関心が行かなかった。
「あんたたちそろそろ寝なさいよ」
母が見かねて寝かしにきた。布団を敷いて、子供部屋で春樹と寝る事になった。
「ねぇねぇ、明日何する?」
電気を消して興奮状態にあった私が春樹に無駄に話しかけていた。
「お父さんあしたお休みだから、どっか連れてってもらようよ」
「いいの?おじさん、疲れてんじゃないの?」
「いいのいいの。お父さんドライブよく連れてってくれるし」
暗闇の中、ふいに春樹が押し黙った。名前を呼んでも答えない。私はだんだん春樹そこにいるのか心配になってそれを探ってみる。
「なんだよ、ベタベタ触んなよ」
不機嫌な声が帰ってきて安心した。
まだ寝たとかいう訳ではなさそうだ。
「ハルキ君がずっとウチにいればいいのになぁ」
一人っ子だし、従妹も歳が離れているから、何かと一人でいることが多く寂しかったのだ。こうやって春樹がウチにいれば朝でも夜でもいつでも遊び相手に困らない。
「本当に?」
触るなって言ったのに、春樹の方から私の手を掴んだ。
「本当にそう思ってる?俺がいてもいい?」
この時の私にはどうしてそんな事を言うか分からず、うん、としか答える事ができなかった。それでも春樹はそっか、と呟いた。どこか安心した声色で。
そう言えば春樹の家族の人に会ったことがないとその時ぼんやり思った。
お父さんどころかお母さんも。兄妹がいるのかさえも。
同じマンションなのに会ったことがない。越してきて一か月しか経ってないというのもあるのだろうか。それにしても春樹の部屋の近くに行っても出てきた所を見たことがなかった。お母さんも仕事しているなのかな、と思っていた。
ピンポンとチャイム音が聞こえた。
いつの間にか寝ていたらしく、目を開けて起き上がる。朝かと思ったらまだ真っ暗だった。
チャイム音が何回も鳴り響いている。何だろうと思って玄関に向かった。
「勝手に息子を連れ帰るなんておかしいんじゃないの!」
「あ、あの…?」
既に母が出ていて、そこには前にみた綺麗な女性がいた。
ただ、今怒鳴っているその顔はかなり鬼気迫るものがあって私は竦んで動けなくなってしまった。
「これって誘拐になるわよ、この人攫い!」
その女の人は、酔っているのか呂律があまり回ってなかった。それがさらに狂気を伝えてさらに怖くなる。
「な…!言わせてもらいますけどね、小さな子を放っておいて出かける方がおかしいんじゃないんですか!しかも今何時だと思っているんですか?夜中の3時ですよ、非常識なんじゃないですか」
母も珍しく気色ばんでいた。父との喧嘩の時並みに大きな声が出ている。
「はぁ?!人の家のことに口出す気?ふざけるんじゃないわよ、いいからさっさと春樹を連れてくればいいのよ」
春樹、という名前にドキリとした。
もしかしてこの人は春樹の家の人なのかもしれないと気付く。
その目がふと此方に向く。もしかしたら前に会った時に顔を覚えられたのかもしれない。
「お母さん」
後ろから声がしたと思ったらいつの間にか私の背後に春樹がいた。そうして母と春樹のお母さんが取り込んでいる所に物怖じした様子なく向かっていく。
「このクソガキ!勝手なことばかりしやがってっ」
近づいてきた春樹を怒鳴り、その髪を掴み引張り上げた。とても加減されているように見えないけれど、春樹は悲鳴もあげないし泣きもしない。
そしてそのまま春樹を引きずるようにしてその人は帰っていった。
春樹が何を悪い事をしたのだろう。私には分からない。どうしても理解できない。
春樹は家の人に置いてかれてただ自宅に入れなくて、仕方なくウチに来ていただけだ。
それがなぜこんな仕打ちを受けなければならないのだろう。
私はただその様子を震えながら見ていることしかできなかった。
それから春樹のお母さんの事を聞こうとしたが、やっぱり聞けなかった。
あれ以来春樹のお母さんに会わず、春樹もその事には全く触れないし聞いてほしくなさそうだったのでかなりインパクトのある出来事だったがだんだん記憶から薄れていった。
その日、雨が降っていた。
外に出かけることもできずに春樹と私はリビングで遊んでいた。
その日二人で遊んで結構大きいボードゲーム。
子供部屋には大きい、さらに散らかっていたので広げたら窮屈で座れなくなるような。おばあちゃんが誕生日に買ってくれた玩具量販店で一番大きなボードゲーム。しかし一人っ子だから大いに持て余していてたまに家族でやるくらいしかできなかったのだ。
急にウチにお客さんが来た。父の仕事場の人だった。
子供部屋か外行ってなさいと、母に言われて私達は外に出た。畳んだボードゲームを抱えたまま。
かといって外でやる訳にもいかない。屋外でやると細かい部品を無くしてしまったら探すのが大変だしそのまま見つからなくなる可能性が高くなる。
「ハルキ君の家は?」
「え…俺の家?」
春樹は最初困惑したような表情を見せた。
そういえば今まで春樹の家には行ったことがなかった。
「だめだって」
「なんで?」
「なんでも、うちは無理」
むっつりと春樹は頑なに拒否した。
「やだぁ、行きたい行きたい!だってゲームの続きしたんだもん」
得意技・駄々っ子。これまでの付き合いから、こうすれば春樹が折れる確率が高いのを分かっていたのだからもう確信犯としか言いようがない。
散々喚き、春樹を揺さぶった。春樹がうん、と言うまで延々と。
「…わかったよ。まぁ、あいつも今日は遅くまで帰ってこないだろうし」
案の定、春樹が譲歩することになった。本当にしぶしぶと言った感じに。
ただし、三時までと条件つけられたけど。
「わぁ、ここがハルキ君のおうちかぁ」
間取りはそんなにウチと変わらなかった。
家より家具が少なくて、少しの乱れもない。寒々しい印象を受けた。まるでモデルハウスみたいな。
生活感が薄い。かろうじて、ガラスのテーブルの上にさらにガラス製の灰皿があるので人が住んでるのが分かる。家の人が煙草を吸うのかもしれない。
「なんかキレイだね」
春樹の家を見ると、我が家がいかにごちゃごちゃしているのか分かった。
綺麗だったのは引っ越し直後くらいで、すぐに物に溢れかえってしまった。私もそうだが母は収納が苦手だ。
「そうか?」
褒めたはずなのに、春樹は微妙に嫌そうな顔をしたのはなぜだろう。
早速ゲームを再開して、暫く遊んだ頃。
ふと気になった質問を春樹にぶつけることにした。
「そういえば、春樹のお父さんってどんな人?」
「え、父親?」
露骨に渋そうな顔をされた。
「しらない、あんま家帰らないし」
「お仕事忙しいの?」
「さぁ。なにやってるか分からないし」
春樹は窓の方を見た。昼間だというのにカーテンがかかっていて部屋の中は薄暗い。
「えー、それタンシンフニンとかじゃなくて?」
「多分ちがう…あー、そういえば最近一回帰ってきた。知らない女の人と一緒で、すぐに追いだされたけど」
「え?なんで?」
「しらない。何にも聞いてないし」
今、思うに春樹は何にも知らなくはなかったんだろう。分かっていたんだろう。子供は意外とこういうものに鋭いものだ。ましてや、人一倍敏い春樹なら尚更だ。
「ハルキ君は寂しくないの?お父さんに会えなくて」
全然、と春樹は即答したら。
「いたらいたで、あいつとケンカしてうるさいから」
「あいつ?」
「クソババア」
春樹は子供らしくない顔で言葉を吐き捨てた。
え?と聞き返そうとしたら、玄関からドアの開く音がした。
「くそ、帰ってきやがった」
春樹は立ち上がって私を引っ張って隣の部屋にあるクローゼットを開けた。
そこに私は押し込まれた。
「絶対何が聞こえてもここを開けて出てくるなよ」
焦っているのか早口でまくしたてるとクローゼットを閉めた。私は何がなんだか分からなくてそれに従うことしかできなかった。
節戸のクローゼットだったので、隙間からリビングの様子が見えた。
私は息を殺してその隙間を覗き込む。
出てきたのは女の人だった。
あの怖いくらいに綺麗な女の人。
春樹のお母さん。
「なにこんなに汚してんだよ」
あの時と同じ声だった。軽く言って春樹に近づいて、そして。
春樹が何を言うより早く、その首を絞めて床に押し倒した。
思わず息を呑んだ。カタカタ身体が震えだす。
「散らかすなっていってんだろ!殺されたたいの?!」
そう言って胸や腹を殴る。叩くのではなく拳で。何度も何度も。
春樹が苦しそうに咳き込んでも、それがやめられることはない。
「このゴミが!いつも余計な事ばっかりしやがって、役立たず!」
春樹のお母さんはテーブルの上にあった灰皿に手を伸ばして、それを躊躇することなく春樹の上に振り下ろす。
春樹の上に馬乗りになって、何度も何度も殴りつける。
「お前みたいな子供産まなきゃ良かった、こんな邪魔な子供なんて!」
気が狂ったみたいに怒鳴り声をあげる春樹のお母さん。
あまりにも容赦のない仕打ちに、本当に春樹を殺そうとしているのかと思った。
「お前がいるから、あの人が帰ってこないんだ!お前のせいだ!お前なんて死ねばいいんだ!」
違う、と言えればよかった。
春樹は家に入れる事を最後まで嫌がったのだ。
それに無理を言ったのは私で春樹は少しも悪くない。
こんなに殴られて怒鳴られる理由がない。そう言えれば良かった。
だけど私は震えて、怖くて身体が動かない。声すらあげられない。
春樹みたいに、前に立って庇うことができない。情けないくらいちっぽけで弱い。
「死ねよ!お前が生きてたって私の邪魔になるだけなんだよ!」
憎悪の全てをぶつけるみたいに、灰皿を振り下ろす。
僅かに春樹の呻き声が聞こえて、ついに耐え切れずに耳を覆った。何も見たくなくて目も閉じた。そんなことをしても現実は変わらないのに、目の前の光景が怖くて見ていられなかった。本当に逃げたいのは春樹のはずなのに。
どのくらい時間が経ったのだろうか。
春樹のお母さんが部屋を出た気配がして、急いで私もクローゼットから出てきて春樹のもとに駆け寄る。
「ごめん、ハルキ君ごめんなさい」
春樹は痛くて動けないのか床に倒れたままでいた。
顔は殴られていない、どうやら殴られていたのは服に隠れた部分だけのようだった。
一部始終見てしまった後にはもう痛々しくしか見えない。
「なんで泣いてんの」
春樹がそう指摘した通り何故か私が泣いていた。
ぱたぱた、と春樹の顔に雫が落ちていく。
「ごめん、あたしのせいでハルキ君が…」
こんな事になるなんて全く思ってなかった。軽はずみにやったことがこんな春樹をぼろぼろにしてしまうなんて思いもよらなかった。
「べつに真琴のせいじゃない。なんでもなくてもあいつの機嫌が悪いときにはこうなる」
まだ、お前のせいだと責めてくれたほうがよかった。
本当は優しい男の子、そんなのは分かっている。
「なんでお母さんあんなの、おかしよ」
「おかしくてもこれが俺の家。お前にはわからないだろうけど」
平和で幸せそうな家庭に生まれたお前には、と春樹は多分暗に言い含めたのだろう。
「だれかに助けてって言わないの?」
「前に、近所のおばさんにばれそうになって真琴が来る前に一回大人が何人か家に来て変な所に連れてかれそうになった。そのあとずっと家に閉じ込められてひどい目にあったんだよ」
苦そうに春樹は目を逸らした。
だから大人に知られる事をあんなに警戒していたのか。
どうしてだろう。
どうして、春樹がこんな目に遭わなければならないのか。
父親が家に帰らなかったり、暴力を振るう母親だったり、どうしてそんな人しか春樹の周りにはいないのか。
こんなに誰からも愛される姿かたちをしているのに、決して心優しくないわけじゃないのにどうして愛されないのだろう。
どうしていつも一人なのだろう。どうしてこんなにぼろぼろになるまで殴られなければならないのだろう。
私には分からない。
全然分からなかった。17歳になった今でも分からないし、きっとこれからもたぶん分からない。
だけど何も分からないなりに、その時、未熟な脳味噌で私は思ったのだ。
この男の子を守らなければいけない、と。
もうこんな風に傷つけさせてはいけない、と。
顔を擦って涙を拭いた。
泣いてばかりいられない。私が泣いたって仕方がない。
泣かなければいけないはずの春樹が泣いてないのに。
「あたし、ずっとハルキ君と一緒にいる。一緒にいて守ってあげる、お母さんからもぜんぶ」
痛みを癒すみたいにその体にしがみついた。
春樹の痛い所全部吸い取ってあげたい。春樹の悲しみを全部切り取ってあげたい。
「明日も明後日もずっと一生ハルキ君守ってあげる」
くぐもってよく聞こえなかったかもしれない。
でも春樹は、うん、と確かに答えた。
「それ絶対破るなよ、破ったら罰金百万円」
破らないよ、と私はちょっと笑ってしまった。
守ってあげるなんてこと軽々しくいってしまったが、私の方はそのことに疑いもしなかった。さっきクローゼットの中で震えることしかできなかったくせに完全にその気になっていた。
馬鹿みたいにその日からますます春樹にべったりと行動を共にして、馬鹿みたいに春樹の嫌がることを全部できるだけ排除して、それで守っているつもりだった。
私は本当に馬鹿な子供だったから、それが正しいと思っていた。




