5.6
玄関前に立つ春樹は黒いスウェットを着ていた。
顔が赤くて、呼吸が荒く、目が潤んでいる。そこにいつもの威圧感は感じられない。
…なんか予想よりひどそうなんですが。
「ど、どうですか体調」
取りあえず玄関に入ったはいいが、このまま見舞いの品を渡して帰った方がいいのか。
「どうもこうも、息苦しいし目が回るし頭が重い。あと内臓が痛い」
おお…そりゃ、そうですよね。
春樹は立っているのが辛いのか壁に寄りかかっている。
「えーと…熱何度?」
「温度計ないから測ってない」
「病院に行った?」
「行ってない、そもそも銀行に金下ろしに行かないと診療費ないし」
「何か食べた?」
「…水なら」
「それ、朝から着替えた?」
「いや…」
「……だめじゃん」
思わず言ってしまった。
体調が悪くて気が弱くなっているのか春樹は何も言わず小さく俯いた。言い返す元気もないようだ。
「上がっていい?立ってるの辛そうだし寝てていいから」
大体もう昼過ぎもいいところで、熱が引いた様子が見られないのがおかしい。
そんな病人を放っておけるわけがない。
もう乗りかかった船だ。私にできることがあるならやってやろうじゃないか。
部屋の広さは2DKってところだろうか。
人の部屋をジロジロ見るような趣味は無いつもりだが聊か殺風景すぎるのではないか。
むき出しのフローリングの床に申し訳程度のテレビなどの電化製品とか家具など。
コーディネートもへったくれもない。何せ極端にものがない。テーブルさえないのはどういう了見だろうか。そのせいで部屋がやたら広く見えるといえば見えるけど。
寝室もやっぱりベッドのみみたいな感じだった。ベッドのすぐ近くに窓があり、そこに制服がかかっている。
「まず着替えよっか。汗かいて気持ち悪いでしょ」
「いや、それ位自分でできるし」
でも現にしてなかったじゃないか。それくらい体がつらいってことじゃないんだろうか。
服どこにあるの、と聞くと長い沈黙のあとに、風呂場の横という答えが返ってきた。
「じゃあ適当に持ってくるから寝てて」
春樹はまた暫く何も言わなくなったが、やがて何も反論せずに大人しくベッドに戻っていった。
弱っている春樹は、いつもより人間じみていてなんだか調子が狂う。
どう接していいのか分からなくなる。
何とかしてあげたいっていうのはある。
なんでだろう、苦手な奴のはずなのに。昔から私は何かと春樹のために動いてしまうことがある。春樹が困っているのを放っておくことができない。それはもうなんだか反射条件のように。
そんなのはただの私の自己満足だって知っているから、あんまり関わりたくなかったはずなのにどうしてか私はまたこんなことをしている。馬鹿じゃないのか。
「よし、じゃあ脱ごうか」
「…おい」
春樹はじっと私の手元を見る。
「あ、ごめん。勝手に借りちゃった」
お湯で湿らせたタオルを見せる。それは別にいいけど、と春樹は答えてやっぱりタオルを凝視している。
「…何する気?」
「体を拭こうかと…」
そう答えると、春樹がこんどは私の顔を覗き込む。何言ってんのコイツ、と言いたげな顔で。
やっぱり出過ぎた行動だっただろうか。
やめようかとした時、春樹がゆっくりと上半身を起こした。そして上着を脱いで背中を私の方に向けた。
「頼む」
一言そう言っただけだった。
ほ、本当にいいんだろうか、と多少ビビりながらも私はその背中にそっと手を伸ばした。
「ど、どう?痛くない」
春樹の背中をタオルで拭っていく。首や肩もなるべく丁寧に吹いていく。
「いや、気持ちいい」
掠れた声でそんな台詞を易々と言わないで欲しい。非常に赤面してしまう。いや、決して変な事を考えているわけじゃないのだが、
しかも目の前には背中。こうしてみると意外と大きい。制服の上からだとすらっとして見えるから結構着やせするタイプらしい。
…なんていうか、まさに肉体美?
少し猫背にしているせいか肩甲骨が浮き出て背骨のラインがくっきり出ている、筋肉が背中全体を引き締めてきれいな逆三角形をつくっていた。そのくせ贅肉らしい贅肉が見当たらない。
神様も罪な男を作ってしまったと思う。本当に。
思わず、はぁ、と深く息を吐いてしまった。
くちゅん、とくしゃみの音が聞こえて我に返る。
病人なんだから早く終わらせなきゃいけなかったのに、何をやってるんだ私は。
内心慌てつつ前も拭いて服を着せた。
「春樹って甘いもの食べれたっけ、なんか色々買ってきたから食べてみない?」
水しか飲んでないらしいので栄養を摂らせなければいけない。
スーパーの袋を掲げてみせると今度はわりと素直に頷いた。
とりあえず居間のキッチンはやたらとピカピカで本当に使ったことがあるのかと疑いたくなった。
包丁もあった、まな板もあった、お皿が……ない。
なんでだ。棚のどこをさがしてもない。不思議だ。
買ってきたものはゼリーとプリンと桃缶(プルトップ式)とバナナ。とりあえず桃缶が栄養ありそうで食べやすそうだったから食べやすそうと思ったんだけどそれを移すお皿がない。
多少抵抗はあるが、プラごみの中に洗えば容器としてつかえそうなものがないものかと探してみた。まずゴミが少ない。そして出てきたのは惣菜パンやスナック菓子の袋などだった。…どんな食生活してるんだ。あんまり使えそうなものはなかった。
なんとなく気になって冷蔵庫を開けてみると、またまた新品同様妙に綺麗でみごとにペットボトル冷やし機になっていた。調味料の一つもないとはこれいかに。ご飯は外食で済ましてるんだろうか。
そういえば昔の春樹は私の家でご飯食べるときはちゃんと同じものを食べてたけど、それ以外の時は結構ジャンクなもので食事を済ませることが多かった。そうしたくてそうしてた訳ではない。まだ何もできなかった春樹にはそうするしかできなかったのを分かっていた。そうして、成長しても同じことをしてしまっている。
「…全然、大丈夫なんかじゃないじゃん」
大丈夫だと思いたかったのは私だ。
春樹は一点の曇りもない完璧人間になったんだと。
でもそれは違う。
どんなに身のこなしが上手くなって何でもできるように見えても、やっぱり変わってない。
そんな知りたくもないことを分かってしまった。
「遅い」
寝室に戻ると、開口一番に発せられた言葉がそれだった。心なしか、じと目。え、そんなに長かった?なんか変な事をしてないか気になってたとか。いや、そう言われると心苦しいのですが…。
「熱冷シートなかったから、またタオルもってきたんだけど」
冷水で濡らして絞ったタオル布巾を額に乗せると、目を閉じて大人しくなった。気持ちいいのかもしれない。こんなことなら早くしてあげればよかった。
缶詰は諦めてプリンを食べさせることにした。
蓋を取って、スプーンで掬って差し出す。春樹の鼻先まで持ってきたところで気付いた。
いや、これ位は普通に食べてもらえばいいだろう、と。
なに小っ恥ずかしいことしてるんだ、と手をひっこめようとしたが、その前に春樹がスプーンを咥えた。べつにそんなに咀嚼する必要がないのにもぐもぐしている。
そして食べ終えたらしく、口を開けた。此方を見上げるその姿は完全に雛鳥。…春樹よ、本当にそれでいいのか。
そうして、色々私の心の葛藤がありつつも作業的にプリンを一つ食べ終えさせることができた。
「良かった、ちゃんと食べれたね」
空になった容器を持って立ち上がる。ついでに鞄も拾う。
すると私の手を春樹が掴んだ。
「…どこに行く気?」
「く、薬とか買いに…あと食べ物とかもっとちゃんとしたのがあった方がいいと思って」
さすがに何もなさすぎだ。風邪薬もあれば治りも違うだろうし。
後で困るのは春樹だ。それとも余計なお世話だろうか。
「そんなのいらない」
けほ、と軽く咳をしてから目を逸らして春樹が言葉を続ける。
「何もいらないから、ここにいろよ」
そんなことを言われてしまったら、もう何もできなくなってしまう。
春樹の手に引かれるままに腰の抜けたように床に座り込んだ。
「お前、行ったらそのまま帰りそうな気がする」
「…帰らないよ」
「どうだか。水族館の時も勝手に帰っただろ。イルカショーやってるか確認してきてって頼んでおいて」
それに関しては言い訳できない。
というか、それをまだ根に持っていたのか。
「とにかく大丈夫だから、もう少しいるって」
春樹はじっと私を見て、それから手の力を緩めた。
私ももう少しベッドに近寄ってみる。そして春樹のベットに腕を乗せそこに顎を置いて、春樹を見返してみた。
「真琴」
掠れた声がその名前を呼ぶ。
自分の名前なのに何だかくすぐったい。
なに、とは答えられなかった。
「ありがとう」
それだけ言い捨てて押し黙る。
いつの間にか春樹から寝息が聞こえてきた。
長い睫毛が伏せられ目蓋が閉じている。
なんだか懐かしい匂いがする。
握った手から暖かい熱が伝わってくる。
一番嫌いなはずの人の前なのにどうしてこうも安心しきってしまう私がいるんだろう。




