5.5
次の日、びくびくしながら家を出た。
少し寝坊してしまったのだ。慌てて用意をしたが、昨日よりも10分ばかり遅れてしまった。顔をしかめる春樹の顔が頭に浮かぶ。
どんな罵詈雑言が飛んでくるか想像するだけで気が重い。
「…って、あら?」
恐る恐る昨日春樹が待っていた所まで来たが、そこに奴の姿はなかった。
え、春樹も寝坊か。
辺りを見渡してみてもそれらしい人影は見えない。目立つ容姿なので見落とすことはないだろうと思う。
もしこのまま行ったら後で春樹が来た場合、なにか文句を言われかねないと思ってしばらく待ってみたが遅刻しそうになっただけで春樹がくることはなかった。
あれ、毎日来てやるとか言ってなかった?
ただの気まぐれだろうか。それなら、まぁ、いいんだけどさ。
なんだか肩すかしをくらった気もしなくはないが。
■■■■
三限目は体育だった。来月にはマラソン大会があるので長距離の授業。
何度も言うように体育は苦手だ。
5キロを歩かないように頑張ったつもりだが、順位は女子の中で最後から二位。
体力が限界で私は芝生の上でへばっていた。
授業は終わったというのに立ち上がる気にならない。
「ほら、しゃきっとしなさいよ。次の授業に遅れるじゃない」
隣の須藤が私の体を揺さぶる。
須藤は私と違って、かなり上位でゴールしてたっぷり休んでいるせいか元気だ。
彼女が言っていることは分かっている。
もうそろそろ教室戻っておかないとまずい。
このままのんびり座っていたい欲求を抑えて、体を起こし無理やり立ち上がった。
あ、だめだ。喉が渇きすぎて痛い。
「ごめん、水飲みに行ってくるわ。先に行ってて」
さすがにそれくらいの時間はあるだろう。
水飲み場はサッカー部のプレハブの隣にある。生徒玄関からちょっと遠い。
グラウンドは二つあるのだが、今日のように第一グラウンドで授業あったときにここまで移動しなければならないのが不便だ。
へろへろの体に鞭打ちやっと水飲み場に到着し、水を飲む。それからジャージのポケットに入っていたタオルで口元を拭っていると見覚えのある人物を見かけた。
「篠原」
此方に気付くと篠原は少し小走りでやってくる。
「あれ、次体育?マラソン?」
「そうそう、かったるいよね。まだ暑いのに」
へらりと篠原は柔和な笑みを浮かべた。そっちはさっき走ってたでしょ、と続ける。
「うん、すごい疲れた」
「ちゃんと最後まで走ってたよねぇ。教室の窓から見てたよ」
「えっ…」
予想外の言葉に固まった。
今なんて言った?見てた、だと?
「窓際の席だし、今時期はまだ暑くて窓開いてるし、結構グランド見るんだよね~。フェンスのごしに歩道走ってるのも見えたし」
「え、嘘でしょ」
「ホントだって。こう見えて視力2.0だよ、眼鏡ありで」
じゃあ、私が次々抜かされてるのも、帰りはもう色々限界で転げるようにゴールしたのもみられていた?くそ、そう言えば教室は第二グラウンド向きにあるんだった。
「は、恥ずかしい…」
「頑張っていて、可愛かったよ」
ぶは、と吹き出してしまった。
誰が、誰が可愛いって。何の冗談だ、それ。
「……絶対からかってるでしょ、それ」
「ほんとだって。僕は島崎ちゃんには嘘言わないよ」
とても信じられないんですが。
はいはい、と軽くあしらうと篠原は急に私にしなだれかかってきた。
その行動にびっくりして、発した声がひっくり返ってしまった。
「な、なにやってんの」
「いやぁ、島崎ちゃん信じてもらえてないみたいだからさぁ」
「いや、意味分からないし。っていうか私今超汗臭いし!あんまり近づかない方がいいと思うよ!」
近い、近いって。私の静止なんて聞かずに「臭くないよ~」と私の猫のように肩にすり寄ってくる。
こういう時に何故か春樹が登場するんだよ、無駄に機嫌を損ねたらどうするんだ。篠原は冗談のつもりだろうけど、こっちはとばっちりを受けるから死活問題なんだよ。
「止めてよ、春樹にこんな所見られたらどうするのさ」
「大丈夫だよ、新垣君は今日休みだから」
「えっ、休み?」
篠原の胸を抑えてその顔を見上げた。
「知らなかった?風邪なんだって」
「…は?じゃ、じゃあ本当に今日春樹学校来てないの?」
風邪、とか。奴とは無縁のものと思ってたけど。
やっぱりあのくしゃみは春樹のものだった気がしてならない。元々少し風邪気味だったのかもしれない。
それに昨日水思いっきり被ってたしなぁ。その後、すぐに帰ればいいのに私を送ったのもあまりよくなかったのだろうと思う。熱とか出したのだろうか。
――― まだ高校生なのに一人暮らしなんか大変だろうに
うっ。昨日の朝の父の言葉を思い出す。
落ち着け、大体奴は昔から一人で生きてたようなものだったじゃないか。今までこれくらいのこといくらでもあっただろう。
「そうそう。良かったね島崎ちゃん、今日は無理やり連れ回されたりしないよ」
「う、うん」
本当にそうだ。
私が何か気にするはずがない。むしろ喜ぶべきなんじゃないのか。
「風邪なんて誰でもかかるもんだし別に大したことじゃないでしょ。あの時助けてもらった義理があるとかも別に気にしない方がいいと思う。そんなこと言ってたらどんどん付け込まれちゃうよ」
ほら、篠原もそう言っていることだし。
私にできるのは思いがけなく手にした平和な一日を享受することぐらいだ。
分かってる、そんなの十分。
知らず知らずの内に私はスカートの上から携帯をにぎりしめていた。
これで今更春樹の心配とかしてたら馬鹿だ。
「ほんと馬鹿でしょ、私…」
目の前にはマンションのドア。
そしてインターフォンの押しボタンに手をかけている。もう片方の手には近くのスーパーの袋に入っている果物缶とか諸々のお見舞いの品。
なんかこう、余計な事しやがってとか、言われる予感がひしひしと。
住所は母に聞いた、電話で。運よく今日はパートが休みの日だった。そして嬉々として教えてくれた。一緒に行きたい、と言うのを色々ごまかして抑え込み、意外と分りやすかった春樹の住んでいるマンションに移動して今現在に至る。
まぁ、でも学校行けないくらいしんどいなら居留守とかするんじゃないだろうか。
インターフォン鳴らしておいてこんなことを望むのは変かもしれないけど、できれば出ないでほしい。なんか怖くなってきてしまったのだ。
『はい』
機械ごしにいつもよりくぐもって聞こえる確かに春樹の声がした。
うわ、出ちゃったし!
こうなったらもう逃げられないと覚悟を決めるしかないだろう。
「あの…島崎ですけど」
言うと返事がない。
私だと聞いて、またベットに戻ったのか。それならそれでいいけど…。
それなら早々に帰ってしまおう。呼ばれてもいないのにわざわざ来てしまってなんか恥ずかしい。
踵を返してエレベータに向かおうとした、その時。
ドアが開く音がしたのだ。
「真琴…?」
振り返ると閉まっていた春樹のドアの隙間から此方に顔を出している見慣れた美男子がいた。




